2024年06月02日
ヒグマ捕獲名人。


山本 兵吉(やまもと へいきち)、1858~1950年、日本の猟師。
獣害史最悪と言われた三毛別羆事件のヒグマを退治する等、生涯で捕ったヒグマは300頭と言われます。北海道留萌郡鬼鹿村温根の沢(現・小平町鬼鹿田代)の住人で、鬼鹿山など当時の天塩国の山を主な猟場としました。
山本兵吉の愛銃はロシア製ベルダン1870、黒色火薬11㎜口径単発、村田13年式と同程度のライフル銃です。

大川 春義(おおかわ はるよし)、1909∼1985年、猟師(マタギ)、1915年獣害史上惨劇と言われた三毛別羆事件の舞台となった北海道苫前郡苫前村三毛別(後の苫前町三渓)出身。数少ない目撃者の1人。
当時6歳だったが、同事件の犠牲者の仇を討つ為に猟師となり、生涯にヒグマを100頭以上仕留めてヒグマ狩猟の名人と呼ばれると共に、北海道内のヒグマによる獣害防止に貢献した。

赤石正男(あかいし まさお) 1952年生れ、北海道標津町出身、標津町在住。赤石が初めてヒグマを獲ったのは、成人して散弾銃を持てる様になってすぐの事でした。ハンター歴は約50年、現在も確約中、「野性の熊が最も恐れる男」と呼ばれます。ヒグマの生態を知り尽くし、単独猟歴は120頭を超え、ライフル遠射、罠や捕獲檻を使用しての動物捕獲のエキスパートである。
彼の射程距離は300~400mで、「遠射」の命中率は図抜け、この距離でも、クマより的が小さいエゾ鹿の頭を確実に撃ち抜く事も出来、最長記録は810m先のヒグマだそうです。
赤石氏は「いまだに3ヵ月に2回ペースで、90㎞離れた網走の射撃訓練場に通っている様です。


久保俊治(としはる):1947年、北海道小樽市生まれ。日曜ハンターだった父に連れられ、幼い時から山で遊んで育つ。
20歳の時に狩猟免許を取得し、父から譲り受けた村田銃で狩猟を開始する。
1975年にアメリカに渡り、ハンティング学校アーブスクールで学び、その後は現地プロハンティングガイドにもなるも、翌1976年帰国。
知床半島の根元の標津町で牧場を経営しながら、ドッグレスの単独で山に入りヒグマ猟を行っていました。日本で唯一単独猟のヒグマ猟師。
捕獲頭数は70頭以上と言われていますが、本人は公共せず定かではありません。狩猟方法から推定すれば、牧場経営の傍らのヒグマ撃ちですからもっと少ない気もします。
2018年~狩猟を目指す人、自然が大好きな人のライフスタイルがより豊かな物になる事を願ってアーブスクールジャパンを開講しました。
2024.4.10.心不全の為76才で死去されました。
ヒグマに気付かれない様に、山に入る自分が自然の中で異質ではいけないと、餌を探す鹿と同じ速さで歩き、自らを自然に溶け込ませ、自然の一部と化して歩を進め5~10mの至近距離まで忍び寄り初弾で撃ち斃し、獲物を苦しめない、獲った命を無駄にしない事を信条としていました。
全ては1頭の為に狩猟技術の高みを目指すと著書等では書かれ、ケンさんも彼の狩猟に憧れた時期もありました。しかしその後ケンさんも色々を経験し技量が上がりました。
現在の推定ではヒグマの周辺を何時も歩き廻り、ヒグマから見てあの人間は「無害」であると思い込ませ、至近距離まで接近し撃ったと思っています。
困難だった時代のアメリカ留学と、その後の独自の子育て方法がマスコミに注目され、「大草原のみゆきちゃん」一気に有名になりました。
著書「羆撃ち」も売れましたが、ドッグレスハンターのケンさんに言わせると前半の主役は偶然に出会えた「天才犬フチ」の大活躍物語であり、後半は「フチ」を無くしてオロオロする単なる「名犬ロリコン」物語と言えました。
沖縄の鹿。
エゾ鹿ボウハンティングの可能性。その3:ボウハンティングは高効率。
エゾ鹿のボウハンティング。その2:アメリカの現状と射程距離の変化。
エゾ鹿ボウハンティングの可能性。その1:ハーフライフル。
皆さんに伝えたい事。その14と15:ライフルと散弾の特殊効果。
皆さんに伝えたい事。その12と13:エゾ鹿の習性、ナンバーランキングのオス。
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