2023年12月14日
信長の3段撃ち。心と技術。そして新技術。
8.技術と心が不足した高級銃。
かつて根室を案内した歯科医は600万円の国産最高精度300mワンホールが売りのキングクラフトを使っていましたが、300mの鹿は愚か僅か、50mも怪しげでした。
600万円のカスタムライフルも技術と心が伴わなければ、20万円以下の安物銃にも至らない結果となりました。幸い当時の根室は50mの鹿も豊富でしたから、それでも小物数頭を捕獲出来ました。
キングクラフトカスタム。
また先頃までLB射撃選手の生徒は300mの10㎝を外さないと豪語しました。確かに射撃場の上位選手であれば、300mで10点圏の10㎝をまず外しません。
タクティカルカスタム
しかし実際はタクティカルライフル 200万円とウイン300マグを使っても100mの鹿に対して、1m着弾がズレたマグレヒットのみでした。
マグレヒットでトンズラする鹿はケンさん支援射撃5発で倒れましたが、それでもまだ生きており、止矢に300マグを6発も使いました。翌年は汚名挽回に来るかと思っていましたが、来ませんでした。
実戦は射撃場の逃げない動かない的とは違い、心が定まっておらなければ命中しないのです。
3発被弾即死のショットガン効果は初期被弾から15秒程度しか使えないのです。
またあるハンティングライフルのチャンピオンは、308比でパワー2倍強の338ラプアマグナムのタクティカルライフルを持込み、超大物の即倒と500mの遠射を目指しました。
しかし超大物は全て 「迫力負け」で失中、遠射のも300mは愚か、200m以遠は1度もヒットせずでした。射撃場では上手いのですが、実戦はダメなハンターでした。
射撃技術も実戦経験もお金で買えないのです。優秀な機材も、それに見合う技術と心が伴なっていなければ、安物3流ライフルにも劣る結果しか得られないのです。
そう言う当たり前の事が、スクールを通して、改めて良く分かりました。
また業界の常識は全て業界の利益の為に作り上げた陰謀でした。
8.大砲。
火縄銃は1543年の種子島に伝来、32年後の1575年が3000丁を使った長篠の戦いでした。
1614年、長篠から39年の大坂冬の陣では、大砲が戦いの主導権を握っていました。
伝来32年後に火縄銃は最も重要な武器となり、歴史を変えました。今度は豊臣10万に対し、徳川は20万人、天守まで約500mの備前島に大小約100門の砲を据え、戦いを始めました。
火縄銃口径30㎜大筒の射撃。
火縄銃の時代から大口径の大筒(Max.30㎜、火縄銃12㎜より15倍重い弾)はありましたが、あれは完全な見掛け倒し、実用性は皆無でした。冬の陣で使われた大砲は三浦按針(イギリス)を通して4門購入した「カルバリン砲」でした。
イギリス製の真鍮鋳造砲で長さ3.5m、重さ2㌧、口径127㎜、炸裂弾ではありませんが、30㎜大筒の76倍となる、8㎏の鉄弾を500m先まで飛ばせました。


イギリス製カルバリン砲 国産芝辻砲
大坂冬の陣では国産の「芝辻砲」多数も使われたとあります。全長3.1m、重量1.7トン、口径93㎜、5㎏の鉛弾を600mまで飛ばす事が出来ました。こちらは火縄銃と同じ鉄製の巻張り方式でした。
しかし「芝辻砲」は砲を支える重心点の支点が無く、どの様に実際運用したのかは不明です。
家康はこれらの砲を1時間当たり数発だった様ですが、4昼夜24時間撃ち続け、神経戦を行いました。どの砲の弾が何時命中したのかは定かではありませんが、これが天守一角に数発命中、淀殿の次女8人が1発で全員即死、淀殿はこれを見て一気に戦意を無くし、和議に応じたと言う事です。
豊臣方もこの和議に従えば、それで平穏に済んだのかも知れませんが、和議の条約を破った為、翌1615年再び「大坂夏の陣」となり、豊臣方は全員自害し、徳川の世となりました。
こうして徳川の世は太平となり、238年後の1853年黒船来航の少し前まで、銃と大砲の進化は殆ど止まったままとなりました。世界的には1750年からは画期的な新技術が林立しました。
1853年ペリー4隻来航時、ペリー艦隊の射程2000m級の前装ライフル砲63門に対し、日本側周辺砲台は短射程前装砲が、20門程しか無かったそうです。1854年2度目のペリー来航時は9隻でした。
これらを見て幕府の鎖国時代は終わり、幕府も各藩も洋式装備の購入を競いました。1860年以降の銃や大砲の技術は更に日進月歩でした。
国際的にはアメリカ独立戦争が1781年に終り、やがて南北戦争も1865年に終り、余剰旧式銃や砲が大量に持ち込まれました。日本は不要となった独立戦争時代の旧式兵器を各藩は法外な価格で競って購入しました。
その頃、小銃は金属薬莢式の元込め連発銃の時代に入っており、新型大砲のアームストロング砲やクルップ砲は、共に鋼鉄製であり、ケースレス弾の炸裂弾の元込めライフル砲でした。



アームストロング砲 同閉鎖装置図 75㎜砲弾
大砲は後装化に依り装填時間が最大1/10に著しく短縮され、ライフリングに依り遠く2㎞以遠まで正確に飛ぶ炸裂弾に進化し、射程も威力も桁違い、最早旧式砲では戦いにならない時代でした。
時代は変わり、1990年には自動装填式単装速射砲がイージス艦や護衛艦の主砲となり、進化したレーダー照準に依り、追撃船から、逃げる目標船に連射が可能となりました。
イージス艦127㎜速射砲。
127㎜砲は最大射程が3.6㎞、3秒に1発(連続Max.20発)、76㎜砲なら射程1.8㎞、3秒に2発の連射性能でした。
1999年南北境界線侵犯の北朝鮮警備艇奇襲で開戦(第1延坪海戦)、交戦は14分間続き、韓国軍新式76㎜速射砲が大活躍しました。
北朝鮮軍は10隻中、沈没1、大破5、中破4、北朝鮮軍は動的連射不能の旧式連装砲、韓国軍10隻は奇襲初弾による至近弾小破5隻に留まり、超圧勝でした。
「大坂冬の陣」も幕末のアームストロング砲なら2㎞射程と炸裂弾で、僅か1門で圧勝出来ました。
最新10式戦車120㎜砲なら、逃げる標的に急旋回中に射撃しても、命中する程に進化しました。
かつて根室を案内した歯科医は600万円の国産最高精度300mワンホールが売りのキングクラフトを使っていましたが、300mの鹿は愚か僅か、50mも怪しげでした。
600万円のカスタムライフルも技術と心が伴わなければ、20万円以下の安物銃にも至らない結果となりました。幸い当時の根室は50mの鹿も豊富でしたから、それでも小物数頭を捕獲出来ました。

また先頃までLB射撃選手の生徒は300mの10㎝を外さないと豪語しました。確かに射撃場の上位選手であれば、300mで10点圏の10㎝をまず外しません。
しかし実際はタクティカルライフル 200万円とウイン300マグを使っても100mの鹿に対して、1m着弾がズレたマグレヒットのみでした。
マグレヒットでトンズラする鹿はケンさん支援射撃5発で倒れましたが、それでもまだ生きており、止矢に300マグを6発も使いました。翌年は汚名挽回に来るかと思っていましたが、来ませんでした。
実戦は射撃場の逃げない動かない的とは違い、心が定まっておらなければ命中しないのです。
3発被弾即死のショットガン効果は初期被弾から15秒程度しか使えないのです。
またあるハンティングライフルのチャンピオンは、308比でパワー2倍強の338ラプアマグナムのタクティカルライフルを持込み、超大物の即倒と500mの遠射を目指しました。
しかし超大物は全て 「迫力負け」で失中、遠射のも300mは愚か、200m以遠は1度もヒットせずでした。射撃場では上手いのですが、実戦はダメなハンターでした。
射撃技術も実戦経験もお金で買えないのです。優秀な機材も、それに見合う技術と心が伴なっていなければ、安物3流ライフルにも劣る結果しか得られないのです。
そう言う当たり前の事が、スクールを通して、改めて良く分かりました。
また業界の常識は全て業界の利益の為に作り上げた陰謀でした。
8.大砲。
火縄銃は1543年の種子島に伝来、32年後の1575年が3000丁を使った長篠の戦いでした。
1614年、長篠から39年の大坂冬の陣では、大砲が戦いの主導権を握っていました。
伝来32年後に火縄銃は最も重要な武器となり、歴史を変えました。今度は豊臣10万に対し、徳川は20万人、天守まで約500mの備前島に大小約100門の砲を据え、戦いを始めました。

火縄銃の時代から大口径の大筒(Max.30㎜、火縄銃12㎜より15倍重い弾)はありましたが、あれは完全な見掛け倒し、実用性は皆無でした。冬の陣で使われた大砲は三浦按針(イギリス)を通して4門購入した「カルバリン砲」でした。
イギリス製の真鍮鋳造砲で長さ3.5m、重さ2㌧、口径127㎜、炸裂弾ではありませんが、30㎜大筒の76倍となる、8㎏の鉄弾を500m先まで飛ばせました。


イギリス製カルバリン砲 国産芝辻砲
大坂冬の陣では国産の「芝辻砲」多数も使われたとあります。全長3.1m、重量1.7トン、口径93㎜、5㎏の鉛弾を600mまで飛ばす事が出来ました。こちらは火縄銃と同じ鉄製の巻張り方式でした。
しかし「芝辻砲」は砲を支える重心点の支点が無く、どの様に実際運用したのかは不明です。
家康はこれらの砲を1時間当たり数発だった様ですが、4昼夜24時間撃ち続け、神経戦を行いました。どの砲の弾が何時命中したのかは定かではありませんが、これが天守一角に数発命中、淀殿の次女8人が1発で全員即死、淀殿はこれを見て一気に戦意を無くし、和議に応じたと言う事です。
豊臣方もこの和議に従えば、それで平穏に済んだのかも知れませんが、和議の条約を破った為、翌1615年再び「大坂夏の陣」となり、豊臣方は全員自害し、徳川の世となりました。
こうして徳川の世は太平となり、238年後の1853年黒船来航の少し前まで、銃と大砲の進化は殆ど止まったままとなりました。世界的には1750年からは画期的な新技術が林立しました。
1853年ペリー4隻来航時、ペリー艦隊の射程2000m級の前装ライフル砲63門に対し、日本側周辺砲台は短射程前装砲が、20門程しか無かったそうです。1854年2度目のペリー来航時は9隻でした。
これらを見て幕府の鎖国時代は終わり、幕府も各藩も洋式装備の購入を競いました。1860年以降の銃や大砲の技術は更に日進月歩でした。
国際的にはアメリカ独立戦争が1781年に終り、やがて南北戦争も1865年に終り、余剰旧式銃や砲が大量に持ち込まれました。日本は不要となった独立戦争時代の旧式兵器を各藩は法外な価格で競って購入しました。
その頃、小銃は金属薬莢式の元込め連発銃の時代に入っており、新型大砲のアームストロング砲やクルップ砲は、共に鋼鉄製であり、ケースレス弾の炸裂弾の元込めライフル砲でした。



アームストロング砲 同閉鎖装置図 75㎜砲弾
大砲は後装化に依り装填時間が最大1/10に著しく短縮され、ライフリングに依り遠く2㎞以遠まで正確に飛ぶ炸裂弾に進化し、射程も威力も桁違い、最早旧式砲では戦いにならない時代でした。
時代は変わり、1990年には自動装填式単装速射砲がイージス艦や護衛艦の主砲となり、進化したレーダー照準に依り、追撃船から、逃げる目標船に連射が可能となりました。

127㎜砲は最大射程が3.6㎞、3秒に1発(連続Max.20発)、76㎜砲なら射程1.8㎞、3秒に2発の連射性能でした。
1999年南北境界線侵犯の北朝鮮警備艇奇襲で開戦(第1延坪海戦)、交戦は14分間続き、韓国軍新式76㎜速射砲が大活躍しました。
北朝鮮軍は10隻中、沈没1、大破5、中破4、北朝鮮軍は動的連射不能の旧式連装砲、韓国軍10隻は奇襲初弾による至近弾小破5隻に留まり、超圧勝でした。
「大坂冬の陣」も幕末のアームストロング砲なら2㎞射程と炸裂弾で、僅か1門で圧勝出来ました。
最新10式戦車120㎜砲なら、逃げる標的に急旋回中に射撃しても、命中する程に進化しました。
Posted by little-ken
at 09:10
│銃と弾