2023年09月07日
鹿猟の思い出、岩手五葉山と北海道白糠。
3.五葉山遠征猟。1991年。
初の遠征先は岩手花巻五葉山、ガン誌W元編集長が岩手に引っ越し、鹿がウジャウジャいるからと、本州鹿巻狩りに招待してくれました。2年間に有料猟区6日を含む、63日の無料招待を受けました。それは豊橋のカモ猟と木曽の家にスキーの合計40日無料招待がしてあったからです。
今回はそれを大幅に上廻る招待を受けましたので、定価100万円の弊社の代理店の権利を無償で譲り、技術指導をしました。更にケンさん専用のボロパジェロを経費こちら持ちで、花巻駐在とし、ケンさん狩猟時以外の使用権を与えました。
彼は自前パジェロを売却処分し、ボロパジェロを自前の愛車とし、同時に花巻猟友会の無料レンタカーとし、地元に顔を売りました。五葉山巻狩り時は当たり前ですが、ケンさんの車ですから狩猟には不便なく使えました。
花巻の猟果は、たくさんいた鹿は全て五葉山保護区の鹿であり、本命の巻狩りでは63日もの実戦をしながら捕獲はゼロ、往復の乱戦時に3頭捕獲した記録がありますが、内容の記憶はありません。
花巻五葉山は余りにも獲れず、翌1993年から皆でエゾ鹿の巻狩りに行こうと言う事になりました。
4.白糠のエゾ鹿民宿巻狩り。1993年。
前年が休猟区明けだった白糠の民宿巻狩りに行きました。ボロパジェロはその年から北大に通う、W編集長の長男専用車となり、また同時に寮の無料レンタカーとなりました。当り前ですが、ボロパジェロの運用は特に支障はなく、白糠の民宿巻狩りを花巻合同で3年行いました。
白糠民宿幕狩りは3年間で21日行いましたが、本命の巻狩りでは誰も捕獲出来ずに終わりました。しかし往復の乱戦で、ケンさんは4頭を捕獲しました。
1993年は「禅の心」心作戦に開眼し、3週連続で本州鹿3段角を捕獲した、その翌週からエゾ鹿猟が始まりました。そして初日の待ち場に行く途上でエゾ鹿を踏み出し、4週連続捕獲の快挙となりました。
銃はエゾ鹿用に新調した「ルガー77ボルトアクションスコープ専用銃、1990年頃からスコープ照準器が主流になり、照星や照門を略したスコープ専用銃が販売される様になり、ここからライフル銃は新たに大きく進化しました。
1993~1998

ルガー77、ボルトアクションスコープ専用銃、口径308、固定マガジン5発。
当時デビューしたばかりのスコープ専用銃のステンレスモデルで、軽量タイプを選択は
間違いで軽量が故に命中精度が低く実用射程は150mでしたが、ケンさんにライフル銃
とは何かを教えてくれました。
鹿は50m先の森の中を全速で走っています。当初視野が狭いスコープではスナップショットは無理と思われましたが、運用してみますと意外に簡単に対応出来ました。ルガースコープ専用銃は入手して1ヶ月も過ぎていませんが、簡単に鹿をスコープに捉え、チョイリードで撃墜しました。


ケンさんのエゾ鹿第1号(1993)は森の中50m先を走る中型鹿でした。さてルガー77のランニング第2号はその5年後となり、狩猟大全集の表紙にもなっている88㎝の怪物級超大物エゾ鹿でした。
やはり50m先を走っていましたが、同様に1発で撃墜されました。スイングを止めなければ、50m時リードは60㎝と僅かで、その距離であればランニングショットはイージーでした。
この鹿は結果的に25年間に捕獲した1051頭中、最大の88㎝でした。この様にスコープ専用銃は、他の照準器に比べ、少しの練習だけで、スナップショットやランニングショットが、いとも簡単に実用化出来ました。
この頃から走るエゾ鹿が非常に多くなり、ランニング射撃を本格的にマスターしようと思い立ちました。
5.白糠の笑い話。1994年。
話はまた白糠に戻りますが、民宿ガイドから面白い話を聞きました。

「ライフルハンター」は大藪の「ザ・ビッグ・ゲーム」と共にアマチュアライフルハンターのバイブルとなっており、ケンさんも何時か足元位には到達したいと憧れた人でした。
話はまた白糠に戻りますが、民宿ガイドから面白い話を聞きました。
右の「ライフルハンター」は大藪の「ザ・ビッグ・ゲーム」と共にアマチュア ライフルハンターのバイブルとなっており、ケンさんも憧れた人でした。
柳田氏は1932年生まれ。ライフル・ハンターは1952~1991年まで39年間の狩猟ドギュメント?が書かれ、1992年出版。本州共猟勉強時代、エゾ鹿&ヒグマの単独猟時代?、アフリカのライオンや象、USAピューマ、カナダ北部の北極熊等と勝負し、合計では熊類62頭、エゾ鹿92頭、猪&本州鹿等69頭、となっていますが、後述の理由から信憑性はかなり低そうです。
民宿ガイドは1992年、著者の柳田佳久のガイドをしたと言うのです。柳田氏の書の末期には白糠にボロ小屋を手に入れ、連日単独猟で大きな成果を上げた事になっていますが、その実はこうだった そうです。連日見慣れない男が林道を歩いていましたので、民宿ガイドは声を掛けたそうです。
柳田氏は開口1番に「1週間歩いているが、鹿を見掛けた事が無い、ここは鹿がいない所ですね」と 言ったそうです。民宿ガイドは「イヤ、そんな事は絶対に無い、鹿はウジャウジャいる、車に乗りなさい、鹿を見せますから」と走り始め、すぐに数頭を見せたそうです。白糠は1992年が休猟明けであり、鹿はまだ本当にたくさんいました。
そして翌日から3日ガイドをしましたが、柳田氏はハンターとしてもかなりドヘタな部類だったそうです。それでも数頭を捕獲させ、そして帰り際に出版されたばかりの本を1冊置いて行ったそうですが、民宿ガイドが言うには、単独猟など出来る筈がない、お粗末な技量だったそうです。
翌1993年からケンさんは白糠で、後述の用の単独流し猟に転向、その初年度から概ね1日1頭を捕獲出来ました。憧れのバイブルの著者は、同時まだまだ未熟だったケンさんよりも、更に大幅未熟だったのですから、笑ってしまいます。
かなり後刻2010年頃にケンさんは他の著者作品を含む、全てのバイブルを検証しましたが、全ての書の随所にイカサマ内容を発見出来てしまいました。それらは全てドギュメントではなく、「酷い嘘っぱち」のイカサマ書でしたが、しかし読み物としては中々の作品でした。
柳田氏の剥製コレクションの写真を見た事がありますが、クドウもオリックスもエランドも、ケンさんの捕獲より遥かに貧弱でした。白糠猟の延長で見ると、どうも柳田氏のアフリカ猟は養殖動物の陶物切りの50mランチ猟、又は檻の中で撃つカン詰猟をした様に思えます。
ケンさんはアラスカ猟やその他の国の狩猟の経験はなく、その方面は不明ですが、銃の取り扱いで随所にイカサマ内容がありました。
柳田氏の射撃をビデオで見た事があります。愛銃はウェザビーマークⅤ、アイアンサイトを残した古いタイプで口径30-06、スコープ専用銃ではありません。ケンさんとすれ違いの白糠等を考えると古い過ぎる考えの銃でした。銃を30度上に向け、肩にツンツンする事5回以上、数秒後やっと肩と ホッペの位置が決まると、水平方向に「ガバッ」と被せ、目標を捜索の後に、照準となります。
あれで飛び掛かって来るライオンを至近距離のスナップショットで撃墜したそうですから、大きな?が付きます。スコープ専用銃でない銃の場合、スナップショットやランニングショットが不可能とは申しませんが、目標を速やかに捉えられないのですから、実用化するには絶望的困難を伴うと思われます。
また同様に著書の自己紹介欄には主に単独猟で、合計熊類62頭、エゾ鹿92頭、猪&本州鹿等69頭となっておりますが、白糠の延長で考えますと、捕獲頭数自体にも大いに疑問を感じます。少なくとも単独猟は有り得ないのではと感じます。
柳田氏のエゾ鹿猟も「狩猟界」の流し猟成功記事に乗せられた、被害者だったと言う事にもなります。 この点、大藪氏もエゾ鹿猟をしたと思いますが、エゾ鹿ハンターは海外猟経験者と違い、桁外れに多く、ボロが出易いと判断したのか、書きませんでした。
6.白糠のメス特別解禁。1994年。
1994年1月16日~31日、永らく禁猟であったメス鹿が特別解禁されました。解禁されるまでのメスは本当に道端にゴロゴロおり、メスなら幾らでも獲れるのと思った人も多いと思います。
ボロパジェロのW編集長も白糠のメスなら「オレでも獲り放題」と、鹿肉の注文をたくさん集めて来ました。メス解禁前は朝7時頃林道を走りますとカーブを10~20回程曲がると撃たれないメス鹿の群れがいました。またカーブを10~20回ほど曲がりますと次の群れがいます。

こんな光景が毎日約一時間続きます。夕方でもその半分位を見る事が出来ました。
当時メス鹿はこれ程いたので、メスが撃てるとあらば獲り放題、誰もがそう思いました。編集長は15日休みを取り、鹿を控え目に見て毎日1頭獲る予定で張り切って北海道に遠征しました。
初のメス解禁の日には記録破りの驚く程の人出となりました。実際に林道のメインストリ-トは100mに1台程の車がウジャウジャおりました。どの車にも2~3人が乗っております。あれ程たくさん居た筈のメス鹿はすでに1頭も見えません。余りの車の量に鹿の動きが全く止まってしまった様でした。
ケンさんはこれでは鹿に出会う事が難しいと感じ、マイナー林道に入りました。やがて解禁の時間と共に、銃声が連続十数秒続きました。如何にハンターが多かったのか想像が付きます。
間もなくケンさん達もメス2頭の群れに50m強で出会いました。編集長は心が定まっておらず失中、ケンさんはダブル捕獲でした。その後ケンさんはもう1頭を捕獲しました。
午前中の出会いはそれで終わりましたが、その日の夕方も、2日目も更にその翌日もあれ程居たメス鹿は1頭も見る事がなくなりました。4日目の少し遅目の朝に1度だけ鹿が急に動き出しまし、また1頭を頂く事が出来、ケンさんはその翌日帰りました。
しかし編集長はその後更に1週間猟をしましたが、あれ程たくさん道端に居たメス鹿は、遂にその後1頭も見る事が出来なかったそうです。全く見事なメス鹿の豹変でした。控え目に毎日1頭を捕獲する計算で、鹿肉の大量注文を集めて来た編集長は目算が狂いました。
メインの林道の道端には鹿捕獲の痕跡が約1㎞毎にありましたが、あの100mに1台の膨大な車の量からすれば、獲れたのは10台に1台程度、獲れなかったガッカリ組が殆どではなかったかと思います。
オスも猟期前半はメスに惹かれて動きますので、従来はオスも多少姿を見る事が出来たのですが、メスがハンターに追われた以降は、オスの出会いも激減しました。
単独流し猟中、ケンさんは山奥で脱輪させ、回収は来春を覚悟しましたが、Hプロに助けられました。休猟明けから数年、特にメス特別解禁の後の白糠は、出会いが極端に少なくなりました。
それ故にHプロも来年から休猟明けとなる根室に移ろうと思っており、ガイドも出来るので良かったら来ないかとの誘いを受けました。車を助けてもらったお礼を兼ね、ガイド猟を試す事にしました。
そして翌1997年、根室に向かう途中でメスと小物オスの群れを発見、ここから3頭を捕獲しました。
根室到着は3頭捕獲の解体処理で遅くなり、暗くなってしまいました。
7.白糠のエゾ鹿の単独流し猟。1996年。
花巻合同の白糠民宿巻狩りは獲れないので解散し、ケンさんは単独流し猟を計画しました。
そこで北大駐在のボロパジェロを白糠まで回送してくれる様にお願いしました。
日頃経費全てをこちら持ちで何年も無料運行しているのですから、それに応じて当然と言えました。
また周辺状況が変わり、車を引き上げる事になっても、言うべき言葉は「永らく無料で使わさせて頂き、ありがとうございました」になる筈です。しかし長男はグズグズ言って逃れ様とし、車をゴネ得しようとしました。
何時の間にか原則を忘れ、人の褌でイイカッコするのが、当たり前になってしまったのでした。
それで頭に来まして、北大の寮まで取りに行きました。勿論日時は事前に連絡してありますが、予想通り居留守でした。駐車場で車を探し出し、寮の管理人に車を引き上げる旨の連絡を残し、持参のスペアキーで持ち帰りました。
1996年からケンさんは白糠の単独流し猟を行う様になり、概ね1日1頭を捕獲が可能となりました。そして予定の単独流し猟を成功させ、帰りに 花巻に立寄り、見本のトレーラー等も愛知まで回収しました。

さてケンさんは概ね1日1頭が獲れましたが、流し猟は誰でも獲れるのか?
ケンさんの地元からも「狩猟界」流し猟成功記事に刺激された有志3組が、ガイドレス自前流し猟に挑戦しましたが、実戦1週間ずつ3年通っても、残念ながら全て撃沈でした。
また白糠同宿6組も連日捕獲ゼロが続いていました。エゾ鹿猟は誰でも獲れる程甘くはないのです。
初の遠征先は岩手花巻五葉山、ガン誌W元編集長が岩手に引っ越し、鹿がウジャウジャいるからと、本州鹿巻狩りに招待してくれました。2年間に有料猟区6日を含む、63日の無料招待を受けました。それは豊橋のカモ猟と木曽の家にスキーの合計40日無料招待がしてあったからです。
今回はそれを大幅に上廻る招待を受けましたので、定価100万円の弊社の代理店の権利を無償で譲り、技術指導をしました。更にケンさん専用のボロパジェロを経費こちら持ちで、花巻駐在とし、ケンさん狩猟時以外の使用権を与えました。
彼は自前パジェロを売却処分し、ボロパジェロを自前の愛車とし、同時に花巻猟友会の無料レンタカーとし、地元に顔を売りました。五葉山巻狩り時は当たり前ですが、ケンさんの車ですから狩猟には不便なく使えました。
花巻の猟果は、たくさんいた鹿は全て五葉山保護区の鹿であり、本命の巻狩りでは63日もの実戦をしながら捕獲はゼロ、往復の乱戦時に3頭捕獲した記録がありますが、内容の記憶はありません。
花巻五葉山は余りにも獲れず、翌1993年から皆でエゾ鹿の巻狩りに行こうと言う事になりました。
4.白糠のエゾ鹿民宿巻狩り。1993年。
前年が休猟区明けだった白糠の民宿巻狩りに行きました。ボロパジェロはその年から北大に通う、W編集長の長男専用車となり、また同時に寮の無料レンタカーとなりました。当り前ですが、ボロパジェロの運用は特に支障はなく、白糠の民宿巻狩りを花巻合同で3年行いました。
白糠民宿幕狩りは3年間で21日行いましたが、本命の巻狩りでは誰も捕獲出来ずに終わりました。しかし往復の乱戦で、ケンさんは4頭を捕獲しました。
1993年は「禅の心」心作戦に開眼し、3週連続で本州鹿3段角を捕獲した、その翌週からエゾ鹿猟が始まりました。そして初日の待ち場に行く途上でエゾ鹿を踏み出し、4週連続捕獲の快挙となりました。
銃はエゾ鹿用に新調した「ルガー77ボルトアクションスコープ専用銃、1990年頃からスコープ照準器が主流になり、照星や照門を略したスコープ専用銃が販売される様になり、ここからライフル銃は新たに大きく進化しました。
1993~1998

ルガー77、ボルトアクションスコープ専用銃、口径308、固定マガジン5発。
当時デビューしたばかりのスコープ専用銃のステンレスモデルで、軽量タイプを選択は
間違いで軽量が故に命中精度が低く実用射程は150mでしたが、ケンさんにライフル銃
とは何かを教えてくれました。
鹿は50m先の森の中を全速で走っています。当初視野が狭いスコープではスナップショットは無理と思われましたが、運用してみますと意外に簡単に対応出来ました。ルガースコープ専用銃は入手して1ヶ月も過ぎていませんが、簡単に鹿をスコープに捉え、チョイリードで撃墜しました。

ケンさんのエゾ鹿第1号(1993)は森の中50m先を走る中型鹿でした。さてルガー77のランニング第2号はその5年後となり、狩猟大全集の表紙にもなっている88㎝の怪物級超大物エゾ鹿でした。
やはり50m先を走っていましたが、同様に1発で撃墜されました。スイングを止めなければ、50m時リードは60㎝と僅かで、その距離であればランニングショットはイージーでした。
この鹿は結果的に25年間に捕獲した1051頭中、最大の88㎝でした。この様にスコープ専用銃は、他の照準器に比べ、少しの練習だけで、スナップショットやランニングショットが、いとも簡単に実用化出来ました。
この頃から走るエゾ鹿が非常に多くなり、ランニング射撃を本格的にマスターしようと思い立ちました。
5.白糠の笑い話。1994年。
話はまた白糠に戻りますが、民宿ガイドから面白い話を聞きました。
「ライフルハンター」は大藪の「ザ・ビッグ・ゲーム」と共にアマチュアライフルハンターのバイブルとなっており、ケンさんも何時か足元位には到達したいと憧れた人でした。
話はまた白糠に戻りますが、民宿ガイドから面白い話を聞きました。
右の「ライフルハンター」は大藪の「ザ・ビッグ・ゲーム」と共にアマチュア ライフルハンターのバイブルとなっており、ケンさんも憧れた人でした。
柳田氏は1932年生まれ。ライフル・ハンターは1952~1991年まで39年間の狩猟ドギュメント?が書かれ、1992年出版。本州共猟勉強時代、エゾ鹿&ヒグマの単独猟時代?、アフリカのライオンや象、USAピューマ、カナダ北部の北極熊等と勝負し、合計では熊類62頭、エゾ鹿92頭、猪&本州鹿等69頭、となっていますが、後述の理由から信憑性はかなり低そうです。
民宿ガイドは1992年、著者の柳田佳久のガイドをしたと言うのです。柳田氏の書の末期には白糠にボロ小屋を手に入れ、連日単独猟で大きな成果を上げた事になっていますが、その実はこうだった そうです。連日見慣れない男が林道を歩いていましたので、民宿ガイドは声を掛けたそうです。
柳田氏は開口1番に「1週間歩いているが、鹿を見掛けた事が無い、ここは鹿がいない所ですね」と 言ったそうです。民宿ガイドは「イヤ、そんな事は絶対に無い、鹿はウジャウジャいる、車に乗りなさい、鹿を見せますから」と走り始め、すぐに数頭を見せたそうです。白糠は1992年が休猟明けであり、鹿はまだ本当にたくさんいました。
そして翌日から3日ガイドをしましたが、柳田氏はハンターとしてもかなりドヘタな部類だったそうです。それでも数頭を捕獲させ、そして帰り際に出版されたばかりの本を1冊置いて行ったそうですが、民宿ガイドが言うには、単独猟など出来る筈がない、お粗末な技量だったそうです。
翌1993年からケンさんは白糠で、後述の用の単独流し猟に転向、その初年度から概ね1日1頭を捕獲出来ました。憧れのバイブルの著者は、同時まだまだ未熟だったケンさんよりも、更に大幅未熟だったのですから、笑ってしまいます。
かなり後刻2010年頃にケンさんは他の著者作品を含む、全てのバイブルを検証しましたが、全ての書の随所にイカサマ内容を発見出来てしまいました。それらは全てドギュメントではなく、「酷い嘘っぱち」のイカサマ書でしたが、しかし読み物としては中々の作品でした。
柳田氏の剥製コレクションの写真を見た事がありますが、クドウもオリックスもエランドも、ケンさんの捕獲より遥かに貧弱でした。白糠猟の延長で見ると、どうも柳田氏のアフリカ猟は養殖動物の陶物切りの50mランチ猟、又は檻の中で撃つカン詰猟をした様に思えます。
ケンさんはアラスカ猟やその他の国の狩猟の経験はなく、その方面は不明ですが、銃の取り扱いで随所にイカサマ内容がありました。

柳田氏の射撃をビデオで見た事があります。愛銃はウェザビーマークⅤ、アイアンサイトを残した古いタイプで口径30-06、スコープ専用銃ではありません。ケンさんとすれ違いの白糠等を考えると古い過ぎる考えの銃でした。銃を30度上に向け、肩にツンツンする事5回以上、数秒後やっと肩と ホッペの位置が決まると、水平方向に「ガバッ」と被せ、目標を捜索の後に、照準となります。
あれで飛び掛かって来るライオンを至近距離のスナップショットで撃墜したそうですから、大きな?が付きます。スコープ専用銃でない銃の場合、スナップショットやランニングショットが不可能とは申しませんが、目標を速やかに捉えられないのですから、実用化するには絶望的困難を伴うと思われます。
また同様に著書の自己紹介欄には主に単独猟で、合計熊類62頭、エゾ鹿92頭、猪&本州鹿等69頭となっておりますが、白糠の延長で考えますと、捕獲頭数自体にも大いに疑問を感じます。少なくとも単独猟は有り得ないのではと感じます。
柳田氏のエゾ鹿猟も「狩猟界」の流し猟成功記事に乗せられた、被害者だったと言う事にもなります。 この点、大藪氏もエゾ鹿猟をしたと思いますが、エゾ鹿ハンターは海外猟経験者と違い、桁外れに多く、ボロが出易いと判断したのか、書きませんでした。
6.白糠のメス特別解禁。1994年。
1994年1月16日~31日、永らく禁猟であったメス鹿が特別解禁されました。解禁されるまでのメスは本当に道端にゴロゴロおり、メスなら幾らでも獲れるのと思った人も多いと思います。
ボロパジェロのW編集長も白糠のメスなら「オレでも獲り放題」と、鹿肉の注文をたくさん集めて来ました。メス解禁前は朝7時頃林道を走りますとカーブを10~20回程曲がると撃たれないメス鹿の群れがいました。またカーブを10~20回ほど曲がりますと次の群れがいます。
こんな光景が毎日約一時間続きます。夕方でもその半分位を見る事が出来ました。
当時メス鹿はこれ程いたので、メスが撃てるとあらば獲り放題、誰もがそう思いました。編集長は15日休みを取り、鹿を控え目に見て毎日1頭獲る予定で張り切って北海道に遠征しました。
初のメス解禁の日には記録破りの驚く程の人出となりました。実際に林道のメインストリ-トは100mに1台程の車がウジャウジャおりました。どの車にも2~3人が乗っております。あれ程たくさん居た筈のメス鹿はすでに1頭も見えません。余りの車の量に鹿の動きが全く止まってしまった様でした。
ケンさんはこれでは鹿に出会う事が難しいと感じ、マイナー林道に入りました。やがて解禁の時間と共に、銃声が連続十数秒続きました。如何にハンターが多かったのか想像が付きます。
間もなくケンさん達もメス2頭の群れに50m強で出会いました。編集長は心が定まっておらず失中、ケンさんはダブル捕獲でした。その後ケンさんはもう1頭を捕獲しました。
午前中の出会いはそれで終わりましたが、その日の夕方も、2日目も更にその翌日もあれ程居たメス鹿は1頭も見る事がなくなりました。4日目の少し遅目の朝に1度だけ鹿が急に動き出しまし、また1頭を頂く事が出来、ケンさんはその翌日帰りました。
しかし編集長はその後更に1週間猟をしましたが、あれ程たくさん道端に居たメス鹿は、遂にその後1頭も見る事が出来なかったそうです。全く見事なメス鹿の豹変でした。控え目に毎日1頭を捕獲する計算で、鹿肉の大量注文を集めて来た編集長は目算が狂いました。
メインの林道の道端には鹿捕獲の痕跡が約1㎞毎にありましたが、あの100mに1台の膨大な車の量からすれば、獲れたのは10台に1台程度、獲れなかったガッカリ組が殆どではなかったかと思います。
オスも猟期前半はメスに惹かれて動きますので、従来はオスも多少姿を見る事が出来たのですが、メスがハンターに追われた以降は、オスの出会いも激減しました。
単独流し猟中、ケンさんは山奥で脱輪させ、回収は来春を覚悟しましたが、Hプロに助けられました。休猟明けから数年、特にメス特別解禁の後の白糠は、出会いが極端に少なくなりました。
それ故にHプロも来年から休猟明けとなる根室に移ろうと思っており、ガイドも出来るので良かったら来ないかとの誘いを受けました。車を助けてもらったお礼を兼ね、ガイド猟を試す事にしました。
そして翌1997年、根室に向かう途中でメスと小物オスの群れを発見、ここから3頭を捕獲しました。
根室到着は3頭捕獲の解体処理で遅くなり、暗くなってしまいました。
7.白糠のエゾ鹿の単独流し猟。1996年。
花巻合同の白糠民宿巻狩りは獲れないので解散し、ケンさんは単独流し猟を計画しました。
そこで北大駐在のボロパジェロを白糠まで回送してくれる様にお願いしました。
日頃経費全てをこちら持ちで何年も無料運行しているのですから、それに応じて当然と言えました。
また周辺状況が変わり、車を引き上げる事になっても、言うべき言葉は「永らく無料で使わさせて頂き、ありがとうございました」になる筈です。しかし長男はグズグズ言って逃れ様とし、車をゴネ得しようとしました。
何時の間にか原則を忘れ、人の褌でイイカッコするのが、当たり前になってしまったのでした。
それで頭に来まして、北大の寮まで取りに行きました。勿論日時は事前に連絡してありますが、予想通り居留守でした。駐車場で車を探し出し、寮の管理人に車を引き上げる旨の連絡を残し、持参のスペアキーで持ち帰りました。
1996年からケンさんは白糠の単独流し猟を行う様になり、概ね1日1頭を捕獲が可能となりました。そして予定の単独流し猟を成功させ、帰りに 花巻に立寄り、見本のトレーラー等も愛知まで回収しました。
さてケンさんは概ね1日1頭が獲れましたが、流し猟は誰でも獲れるのか?
ケンさんの地元からも「狩猟界」流し猟成功記事に刺激された有志3組が、ガイドレス自前流し猟に挑戦しましたが、実戦1週間ずつ3年通っても、残念ながら全て撃沈でした。
また白糠同宿6組も連日捕獲ゼロが続いていました。エゾ鹿猟は誰でも獲れる程甘くはないのです。
エゾ鹿ボウハンティングの可能性。その3:ボウハンティングは高効率。
エゾ鹿のボウハンティング。その2:アメリカの現状と射程距離の変化。
エゾ鹿ボウハンティングの可能性。その1:ハーフライフル。
皆さんに伝えたい事。その14と15:ライフルと散弾の特殊効果。
皆さんに伝えたい事。その12と13:エゾ鹿の習性、ナンバーランキングのオス。
皆さんに伝えたい事。その11,難しいエゾ鹿猟。
エゾ鹿のボウハンティング。その2:アメリカの現状と射程距離の変化。
エゾ鹿ボウハンティングの可能性。その1:ハーフライフル。
皆さんに伝えたい事。その14と15:ライフルと散弾の特殊効果。
皆さんに伝えたい事。その12と13:エゾ鹿の習性、ナンバーランキングのオス。
皆さんに伝えたい事。その11,難しいエゾ鹿猟。
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