2023年04月27日
M1カービン と ホーワカービンM300 と 実銃所持。
1.M1カービン。
アメリカの補助兵器として1941年に採用され、性能はライフルと、ピストルの中間で、多弾数と連射性能を求めており、試作型はフルオート機能を持っていましたが、量産型はセミオートのみとなりました。使用する30カービン弾は30-06比73%の110grの弾頭を同68.5%の弾速610m/sで飛ばし、エネルギーは同34.3%の967ft-lbfでした。
命中率はアメリカの射撃場で何丁か見た範囲では、良く当たるとは言えない状態でした。
50m先の空き缶を時に外す程度、AR-15もミニ14も類似、AK-47はもっと酷い命中率でした。そんな中、驚いたのは中国製SKSカービンです。50m先の空き缶を絶対外さないのです。
M1カービンは当初は後方勤務者や警備、士官や下士官用として使われましたが、1942年後半のダルカナルから主力兵器として使われ始め、1945年の硫黄島や沖縄では完全に主力となっていました。
この頃から威力不足が叫ばれ、30連マガジンとフルオートのM2カービンが追加採用され、M1カービンも多くがM2カービンに改修され、フルオートセレクターが追加されましたが、これが後刻ホーワカービンでは大問題となりました。
1968年、ホーワカービンの初期型に30連マガジンを付けた銃とダイナマイトで、在日韓国人「金嬉老」が静岡寸又峡温泉に88時間立て籠りました。ここでの死傷者はありませんが、金嬉老は立て籠り前に金銭 トラブルから暴力団員2名を射殺しています。銃やダイナマイトの入手先は不明ですが、恐らく非合法です。ボルトハンドルの左側に小さな丸頭のレバーがそれです。「金嬉老」の銃にこれが付いていたかは不明です。
その後間もなく1972年、あさま山荘事件が起こりました。学生運動から発展した連合赤軍のメンバーの5人が起こした事件で浅間山荘の管理人の妻(当時31歳)を人質に10日間に渡って立て籠りました。この事件で持ち込まれた銃器は、全て銃砲店等から奪った物でした。
22口径ライフル1丁、38口径短銃1丁、12番上下2連銃3丁、同半自動銃1丁、実包700発とされ 104発が使用され、死者3名(機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(機動隊員26名、民間人1名)を出しました。
死亡者は全て22口径スモールボアライフルによる物で、負傷者の多くは鉄パイプ爆弾による物でした。その後人質は無事保護され立て籠り犯5人は全員逮捕されました。
こうして一般の銃所持者には無縁な世界の犯罪ながら、当局はライフル銃の対応に困り、各県警に狙撃銃が備え付けられました。また22ロングライフル銃は予想外のパワーがあるとして1975年には所持中の銃を含め、22口径銃(射撃専用銃を除く)は所持が全て禁止されました。
明らかに 憲法違反と言えます。SBは全量強制提出になりましたが、大口径ライフルLBは据え置かれました。その後全てのライフル銃は装薬銃10年の経験が必要となり、現在に至ります。
ケンさんがライフル銃を所持したのは1990年ですが、当時はまだ趣味の射撃目的が可能でした。この頃射撃場で軍用銃愛好会や、火縄銃愛好会が月例会をしており、M1カービンだけでなく、38式、モーゼル98、FAL、G3、ガーランドを見ました。
その後、所持ライフル銃の目的は狩猟のみに限定され、軍用銃は多弾数マガジンやフルオート改造問題から新規禁止、運用中の銃も当代限りとなり、やがて所有者が高齢となり、昨今では射撃場で見る事も皆無となりました。
ケンさんがかつて所有の150m12㎜ワンホールのH&Kオートも、中古で売りに出した2006年はまだ良かったのですが、新所有者はその時点で経験年数5年、5年間銃砲店預かりの期間中に新規許可が降りない軍用銃に指定され、ケンさんから15万円で購入した物の、所持する事は出来ずに、2束3文で売却すると言う気の毒な事になりました。
2.ホーワカービンM300
誕生の経緯は自衛隊が1950年に設立されると、アメリカから無償貸与でM1カービンとM1ライフル多数が支給されました。M1カービンの供与は約8万丁に及び、豊和工業がメンテナンスを請け負いました。
その後USAでは新規製造だけではなく、補充部品の製造も終え、1時期の豊和工業は世界中のM1カービンに部品を供給する事になりました。
豊和はその後1955年頃、自衛隊に5000丁のM1カービン新銃を製造し納入しました。1960年、国内は狩猟ブーム中であり、同じ部品で5連発マガジンにした狩猟銃のホーワカービンM300がデビューしました。
その頃、豊和はタイ国にホーワカービンを10000丁輸出、日本の憲法では兵器M1カービンを輸出する事は出来ず、ひょっとすると海外に合法輸出する為に、スポーツ用の猟銃を作りたかったのかも知れません。
何は共あれ、本州鹿猟や日本猪猟に最適と言う謳い文句で国内デビュー、当時のStdライフルの30-06は本州猟には確かに強力過ぎ、インプシリンダーから撃つバックショットでは30mと短射程過ぎ、スラグ弾も30m越では命中精度が悪過ぎました。これらは一応正解です。
当時は初心者講習を受ければ、誰でもSBやLBのライフル銃が買え、当時7.5万円でかなりの数のホーワカービンが売れ、巷の銃砲店にも中古はチラホラありました。
ライフル所持は今も昔もハンターの憧れです。1970年ケンさんが装薬銃申請をしました。
当時ライフル銃に丸印を付ければ、SBやLBのライフル銃の許可も普通に降りました。
ただ何丁も銃を買うお金が無かった事と、ライフル銃を買っても弾が高く、撃つ物も無かったので見送りました。ではホーワカービンの実用性に付きましては、どの程度の物だったのでしょう。
射撃場で見たホーワカービンはアメリカで見たM1カービンと同様、50m急所ヒットが何とかレベルであり、100mの実用性は?でした。
初期型ホーワカービンの照準器はM1カービンのピープサイトからオープンサイトに変更されましたが、指向性が全くなく、本州猟巻狩りでは猪が10m、鹿が20m、しかも動的ですから、ライフル銃は完全に不向きと言えました。ただ誰もが憧れるライフル銃で獲れば、一段と本格派に見られる、単にそんな程度でした。
オープンサイトのライフル銃は視野が広く、スナップショットやランニング射撃も慣れれば比較的 得意そうに見えますが、実際は不得意処か概ね対応不能と言えました。
それはホーワカービンの照準器を見ても分かります。M1カービンではアッパーハンドガードの中央凹みと照星で概ね銃を指向させ、その後にピープサイトで精密照準が出来ましたが、豊和には 狩猟をする人がいなかったのか、ホーワカービンにはその凹みは省略されました。
ホーワカービン初期型の特徴はアッパーハンドガードが鉄で出来ており、オープンサイトであり、意味があるとはとても思えませんが、銃口近くにマズルブレーキ穴が開いていました。
オープンサイトはそもそも指向性ゼロの欠陥サイトですから、本銃の運用により、捕獲率が上がる事は多分無かったと思われます。散弾用リブ無しバレルでスラグを撃った方がまだマシと言えました。
1968年には改良され、ニューホーワカービンとなりました。特徴はアッパーハンドガードが木製になった事(但し凹みは再現されず)、マズルブレーキ穴が無くなり、照門はミリタリー調ピープサイトになった事でした。
これにより射撃精度は多少上がりましたが、元々M1カービンを含めて、構造的に機関部が固定されておらず、30カービン弾も精度不足、それ程の命中精度は期待出来ません。
またピープサイトの穴は1㎜未満、射撃精度上では多少有利になりますが、照門の小穴から照星を経由して獲物を瞬時に見る事は一段と高難度なりました。勿論動的を見る事も同様であり、照準器が改良されたから捕獲率が上がると言う事は全く無く、その反対だったと思います。
さて、時期は不明ながら、使い難かったピープサイトが、後期型では再びオープンサイトに改められました。これを見ますと、ピープサイトは使い難かった事が良く分かります。豊和の製造が終わった1990年代以降はアメリカ製M1カービン型のアイバ―ジョンソンカービンが国内販売されました。
軍用銃としては数量的にまた運用期間的に見ても、十分功作だったM1カービンですが、猟銃と してのホーワカービンは精度不足で射程距離が生かせない、使い物にならない銃でした。
国内デビュー時の謳い文句は本州猟には調度良いパワーであり(一応正解)、短く軽量(これも一応正解)で最も使い易い(?)とされていますが、実際は指向性のない欠陥照準器は目標に素速く 向けられず、初弾命中はマグレのみ、動的の連射は全くのダメ元射撃だった筈です。
そもそも本州猟の猪猟は10m、鹿猟は20m射程の動的ですから、静止オンリーの能力しかない、単弾の銃で捕獲しようとする考えが間違っています。ではエゾ鹿猟ではどうでしょう。
この時代サボットスラグ銃と言うのはまだデビューしておらず、バックショットやスラグ銃では明らかに射程距離不足と言えました。ホーワカービンは弾速600m/sですから120mまで直撃出来、150mまで微少落差補正で使えそうですが、100m以遠の急所狙いには精度不足、結局はエゾ鹿猟に使えない銃でした。
と言う事で、急所狙いの狩猟銃としてみれば、ライフル銃でありながら、ライフルのメリットを精度不足で出し切れない、それがホーワカービンの結論でした。只、標的が人間の胴体と言う前提なら、200mまでは運用可能であり、初期の軍用目的は概ね達成と言えます。
実際の本州猟は50m以内ばかりであり、且つ動的が殆どである事から、適しているのは単弾を撃つ銃ではなく、4号バックショット27粒弾でした。
リブ銃身で射撃距離に合わせたチョークから撃てば、動的対応を含め20~50mまでベストでバッチリカバー出来ます。3粒ヒット即倒のショットガン効果が使える、小粒バックショットのみが本州猟で使える手法でした。
ミリタリークラブのホーワカービンは射撃場で合計5丁見ましたが、内4丁にはフルオートセレクターが付いていました。マガジンは15連発も30連発もミリタリーショップで幾らでも売っており、フルオート用の部品も当時はミリタリーショップで入手可能でした。
また猟場で見たホーワカービンは2丁ですが、2丁共15連マガジンを装着しており、本来の猟銃と言うより、ミリタリーオタクが好む銃と言え、軍用部品がそのまま使えてしまう事が、本銃の寿命を縮めたと言えました。
実際はライフル銃で動的射撃は不可能ではありませんが、絶望的に来難度であり、ライフル銃に連射機能は不要と言えました。後刻2007年に」ケンさんはサコーボルトで憧れだった5発5中を達成しましたが、かいしゅうとかいたいがたいへんで以後はまとめ捕獲を控えました。
そんな事から、狩猟用ライフル銃にマガジンは不要は言い過ぎとしても、15発や30発が必要な理由は何処にもありません。
アメリカの補助兵器として1941年に採用され、性能はライフルと、ピストルの中間で、多弾数と連射性能を求めており、試作型はフルオート機能を持っていましたが、量産型はセミオートのみとなりました。使用する30カービン弾は30-06比73%の110grの弾頭を同68.5%の弾速610m/sで飛ばし、エネルギーは同34.3%の967ft-lbfでした。
命中率はアメリカの射撃場で何丁か見た範囲では、良く当たるとは言えない状態でした。
50m先の空き缶を時に外す程度、AR-15もミニ14も類似、AK-47はもっと酷い命中率でした。そんな中、驚いたのは中国製SKSカービンです。50m先の空き缶を絶対外さないのです。
M1カービンは当初は後方勤務者や警備、士官や下士官用として使われましたが、1942年後半のダルカナルから主力兵器として使われ始め、1945年の硫黄島や沖縄では完全に主力となっていました。
この頃から威力不足が叫ばれ、30連マガジンとフルオートのM2カービンが追加採用され、M1カービンも多くがM2カービンに改修され、フルオートセレクターが追加されましたが、これが後刻ホーワカービンでは大問題となりました。
1968年、ホーワカービンの初期型に30連マガジンを付けた銃とダイナマイトで、在日韓国人「金嬉老」が静岡寸又峡温泉に88時間立て籠りました。ここでの死傷者はありませんが、金嬉老は立て籠り前に金銭 トラブルから暴力団員2名を射殺しています。銃やダイナマイトの入手先は不明ですが、恐らく非合法です。ボルトハンドルの左側に小さな丸頭のレバーがそれです。「金嬉老」の銃にこれが付いていたかは不明です。
その後間もなく1972年、あさま山荘事件が起こりました。学生運動から発展した連合赤軍のメンバーの5人が起こした事件で浅間山荘の管理人の妻(当時31歳)を人質に10日間に渡って立て籠りました。この事件で持ち込まれた銃器は、全て銃砲店等から奪った物でした。
22口径ライフル1丁、38口径短銃1丁、12番上下2連銃3丁、同半自動銃1丁、実包700発とされ 104発が使用され、死者3名(機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(機動隊員26名、民間人1名)を出しました。
死亡者は全て22口径スモールボアライフルによる物で、負傷者の多くは鉄パイプ爆弾による物でした。その後人質は無事保護され立て籠り犯5人は全員逮捕されました。
こうして一般の銃所持者には無縁な世界の犯罪ながら、当局はライフル銃の対応に困り、各県警に狙撃銃が備え付けられました。また22ロングライフル銃は予想外のパワーがあるとして1975年には所持中の銃を含め、22口径銃(射撃専用銃を除く)は所持が全て禁止されました。
明らかに 憲法違反と言えます。SBは全量強制提出になりましたが、大口径ライフルLBは据え置かれました。その後全てのライフル銃は装薬銃10年の経験が必要となり、現在に至ります。
ケンさんがライフル銃を所持したのは1990年ですが、当時はまだ趣味の射撃目的が可能でした。この頃射撃場で軍用銃愛好会や、火縄銃愛好会が月例会をしており、M1カービンだけでなく、38式、モーゼル98、FAL、G3、ガーランドを見ました。
その後、所持ライフル銃の目的は狩猟のみに限定され、軍用銃は多弾数マガジンやフルオート改造問題から新規禁止、運用中の銃も当代限りとなり、やがて所有者が高齢となり、昨今では射撃場で見る事も皆無となりました。
ケンさんがかつて所有の150m12㎜ワンホールのH&Kオートも、中古で売りに出した2006年はまだ良かったのですが、新所有者はその時点で経験年数5年、5年間銃砲店預かりの期間中に新規許可が降りない軍用銃に指定され、ケンさんから15万円で購入した物の、所持する事は出来ずに、2束3文で売却すると言う気の毒な事になりました。
2.ホーワカービンM300
誕生の経緯は自衛隊が1950年に設立されると、アメリカから無償貸与でM1カービンとM1ライフル多数が支給されました。M1カービンの供与は約8万丁に及び、豊和工業がメンテナンスを請け負いました。
その後USAでは新規製造だけではなく、補充部品の製造も終え、1時期の豊和工業は世界中のM1カービンに部品を供給する事になりました。
豊和はその後1955年頃、自衛隊に5000丁のM1カービン新銃を製造し納入しました。1960年、国内は狩猟ブーム中であり、同じ部品で5連発マガジンにした狩猟銃のホーワカービンM300がデビューしました。
その頃、豊和はタイ国にホーワカービンを10000丁輸出、日本の憲法では兵器M1カービンを輸出する事は出来ず、ひょっとすると海外に合法輸出する為に、スポーツ用の猟銃を作りたかったのかも知れません。
何は共あれ、本州鹿猟や日本猪猟に最適と言う謳い文句で国内デビュー、当時のStdライフルの30-06は本州猟には確かに強力過ぎ、インプシリンダーから撃つバックショットでは30mと短射程過ぎ、スラグ弾も30m越では命中精度が悪過ぎました。これらは一応正解です。
当時は初心者講習を受ければ、誰でもSBやLBのライフル銃が買え、当時7.5万円でかなりの数のホーワカービンが売れ、巷の銃砲店にも中古はチラホラありました。
ライフル所持は今も昔もハンターの憧れです。1970年ケンさんが装薬銃申請をしました。
当時ライフル銃に丸印を付ければ、SBやLBのライフル銃の許可も普通に降りました。
ただ何丁も銃を買うお金が無かった事と、ライフル銃を買っても弾が高く、撃つ物も無かったので見送りました。ではホーワカービンの実用性に付きましては、どの程度の物だったのでしょう。
射撃場で見たホーワカービンはアメリカで見たM1カービンと同様、50m急所ヒットが何とかレベルであり、100mの実用性は?でした。
初期型ホーワカービンの照準器はM1カービンのピープサイトからオープンサイトに変更されましたが、指向性が全くなく、本州猟巻狩りでは猪が10m、鹿が20m、しかも動的ですから、ライフル銃は完全に不向きと言えました。ただ誰もが憧れるライフル銃で獲れば、一段と本格派に見られる、単にそんな程度でした。
オープンサイトのライフル銃は視野が広く、スナップショットやランニング射撃も慣れれば比較的 得意そうに見えますが、実際は不得意処か概ね対応不能と言えました。
それはホーワカービンの照準器を見ても分かります。M1カービンではアッパーハンドガードの中央凹みと照星で概ね銃を指向させ、その後にピープサイトで精密照準が出来ましたが、豊和には 狩猟をする人がいなかったのか、ホーワカービンにはその凹みは省略されました。
ホーワカービン初期型の特徴はアッパーハンドガードが鉄で出来ており、オープンサイトであり、意味があるとはとても思えませんが、銃口近くにマズルブレーキ穴が開いていました。
オープンサイトはそもそも指向性ゼロの欠陥サイトですから、本銃の運用により、捕獲率が上がる事は多分無かったと思われます。散弾用リブ無しバレルでスラグを撃った方がまだマシと言えました。
1968年には改良され、ニューホーワカービンとなりました。特徴はアッパーハンドガードが木製になった事(但し凹みは再現されず)、マズルブレーキ穴が無くなり、照門はミリタリー調ピープサイトになった事でした。
これにより射撃精度は多少上がりましたが、元々M1カービンを含めて、構造的に機関部が固定されておらず、30カービン弾も精度不足、それ程の命中精度は期待出来ません。
またピープサイトの穴は1㎜未満、射撃精度上では多少有利になりますが、照門の小穴から照星を経由して獲物を瞬時に見る事は一段と高難度なりました。勿論動的を見る事も同様であり、照準器が改良されたから捕獲率が上がると言う事は全く無く、その反対だったと思います。
さて、時期は不明ながら、使い難かったピープサイトが、後期型では再びオープンサイトに改められました。これを見ますと、ピープサイトは使い難かった事が良く分かります。豊和の製造が終わった1990年代以降はアメリカ製M1カービン型のアイバ―ジョンソンカービンが国内販売されました。
軍用銃としては数量的にまた運用期間的に見ても、十分功作だったM1カービンですが、猟銃と してのホーワカービンは精度不足で射程距離が生かせない、使い物にならない銃でした。
国内デビュー時の謳い文句は本州猟には調度良いパワーであり(一応正解)、短く軽量(これも一応正解)で最も使い易い(?)とされていますが、実際は指向性のない欠陥照準器は目標に素速く 向けられず、初弾命中はマグレのみ、動的の連射は全くのダメ元射撃だった筈です。
そもそも本州猟の猪猟は10m、鹿猟は20m射程の動的ですから、静止オンリーの能力しかない、単弾の銃で捕獲しようとする考えが間違っています。ではエゾ鹿猟ではどうでしょう。
この時代サボットスラグ銃と言うのはまだデビューしておらず、バックショットやスラグ銃では明らかに射程距離不足と言えました。ホーワカービンは弾速600m/sですから120mまで直撃出来、150mまで微少落差補正で使えそうですが、100m以遠の急所狙いには精度不足、結局はエゾ鹿猟に使えない銃でした。
と言う事で、急所狙いの狩猟銃としてみれば、ライフル銃でありながら、ライフルのメリットを精度不足で出し切れない、それがホーワカービンの結論でした。只、標的が人間の胴体と言う前提なら、200mまでは運用可能であり、初期の軍用目的は概ね達成と言えます。
実際の本州猟は50m以内ばかりであり、且つ動的が殆どである事から、適しているのは単弾を撃つ銃ではなく、4号バックショット27粒弾でした。
リブ銃身で射撃距離に合わせたチョークから撃てば、動的対応を含め20~50mまでベストでバッチリカバー出来ます。3粒ヒット即倒のショットガン効果が使える、小粒バックショットのみが本州猟で使える手法でした。
ミリタリークラブのホーワカービンは射撃場で合計5丁見ましたが、内4丁にはフルオートセレクターが付いていました。マガジンは15連発も30連発もミリタリーショップで幾らでも売っており、フルオート用の部品も当時はミリタリーショップで入手可能でした。
また猟場で見たホーワカービンは2丁ですが、2丁共15連マガジンを装着しており、本来の猟銃と言うより、ミリタリーオタクが好む銃と言え、軍用部品がそのまま使えてしまう事が、本銃の寿命を縮めたと言えました。
実際はライフル銃で動的射撃は不可能ではありませんが、絶望的に来難度であり、ライフル銃に連射機能は不要と言えました。後刻2007年に」ケンさんはサコーボルトで憧れだった5発5中を達成しましたが、かいしゅうとかいたいがたいへんで以後はまとめ捕獲を控えました。
そんな事から、狩猟用ライフル銃にマガジンは不要は言い過ぎとしても、15発や30発が必要な理由は何処にもありません。
日本製がダメだった理由。
5種類もあった日本の弾薬。
皆さんに伝えたい事。その14と15:ライフルと散弾の特殊効果。
皆さんに伝えたい事。その12と13:エゾ鹿の習性、ナンバーランキングのオス。
皆さんに伝えたい事。その11,難しいエゾ鹿猟。
皆さんに伝えたい事。その8&9&10:アバウト早撃ち、迫力負け、恐怖負け。
5種類もあった日本の弾薬。
皆さんに伝えたい事。その14と15:ライフルと散弾の特殊効果。
皆さんに伝えたい事。その12と13:エゾ鹿の習性、ナンバーランキングのオス。
皆さんに伝えたい事。その11,難しいエゾ鹿猟。
皆さんに伝えたい事。その8&9&10:アバウト早撃ち、迫力負け、恐怖負け。