2020年08月02日

パジェロの工場が閉鎖

1時期はRVブームの牽引役だったパジェロですが、国内販売はすでに2019年に終了し、とうとう輸出も含めて全面終了となりました。ランクルは未だ好評で売れており、何処に違いがあったのでしょう。ケンさんは1980年来のランクルファンですが、実は1970年までは三菱ファン、最初の愛車はウイリスジープでした。一方で1970年まではいすゞファンでもあり、いすゞベレット1800ディーゼルを足としていました。その後いすゞがベレル&ベレットの生産を中止、1980年まではニッサンのセドリックディーゼルに乗っていました。
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パジェロの工場が閉鎖
余談ですが、このポンコツジープと自動車学校払い下げのセドリックのお陰で修理改造の技術をマスター出来ました。冬場の始動性に問題のあったウイリスジープとセドリックですが、セドリックはアースを直接取り、パワーハーネスも太く最短距離に変更しました処、1発で改善されました。
ウイリスジープはそれらに加えてトヨタの部品を使い、6Vから12Vに改装しました。

またセドリックはギヤ比のミスマッチを改善する為にギヤ比違いのミッション3個とデフ3個を解体屋から入手し、ベストな組み合わせを求め、巡航速度は90から120㎞/hに向上しました。ケンさんはこの結果を日産にお知らせしたのですが門前払いでした。
メーカーの車がこれと同仕様に改善されたのは7年後でしたから、日産は誰も真剣にこれ等の問題を考える人がいなかったのは事実です。

昨今のランクルは世界最強の名を欲しいままにしておりますが、1980年頃まではディーゼルエンジンはいすゞであり、総合技術は日産にあり、トヨタはと言うと内装のトヨタとか販売のトヨタと言われていました。特にトヨタのディーゼルエンジンは代表的なダメエンジンであり、当時豊田産業車両の実験課に所属していましたが、そのダメさを痛感していました。ケンさんが1980年にランクル購入を決意したのもエンジンがダイハツ製だったので購入しましたが、もしトヨタエンジンなら見送ったと思います。

   初代パジェロは素晴らしかった
1型パジェロは1982年にデビュー、ターボディーゼルとフロント独立懸架を一早く採用し、素晴らしい加速であり、乗り心地でした。当時ランクル60に比べて羨ましい限りでしたが、走破性だけはランクルの圧勝でした。しかし当時のランクルは錆との戦いであり、6年で床に穴が空き、決して良い車とは言えない車でした。

更にランクル60は11ナンバーの1年車検、加速と乗り心地と共にこの維持費高の1年車検が不満でした。その後に低維持費の2年車検の88ナンバーキャンピング車に小費用で改造登録する事を思い付き、やがてこれが発展してビジネスになり儲けさせて戴いたのですから、この時ランクルを選んで運があったと思います。世の中は何処から運が転がって来るのか分かりません。

1980年の初期型のランクル60はまだまだお粗末な車でしたが、その後ランクルは大幅に改良され、後期型60の1988年頃からは防錆鉄板と改良下塗り塗料で錆から決別、トヨタエンジンも立派なエンジンに育ちました。

そして1990年にはランクル80がデビュー、70も大幅改良され、この2車は完全に世界を圧倒するタフネスさ、高性能ディーゼルエンジン、走破性、錆びない耐久性、これら高性能がランクルを世界的な名車にしました。後述のアラコの意地の拘り設計がここに実を結んでくれたのです。

ランクルもトヨタが設計すれば並の車だったと思いますが、豊田自動織機からトヨタ自動車が分離独立する時に会社の方針に反旗を翻した1部の人達が独立系の荒川車体を立ち上げました。荒川車体は後年アラコとなり、世界中の4駆に絶対に負けない超拘りの設計が故にランクルは超本格派の世界の名車になりました。70シリーズを除く現在のランクルはトヨタ車ですが、当時のランクルはトヨタワッペンのアラコ車でした。

本題の1型パジェロもデビュー当時は世界を大きくリードしており、過酷で名高いパリダカラリーで優勝、三菱は当然ですがその成果を最大限宣伝に使いました。そしてRVブームが起こりパジェロは売れに売れました。ランクルプラドはこのパジェロの独走に待ったを掛ける為に1984年に急遽作られた車であり、デビュー当時はまだまだ高性能とは言えませんでしたが、プラドはその後の改良で見違えるほど成長し、ライバルパジェロを圧倒し、他のランクルと肩を並べるまでになりました。
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   パジェロ2型の詐欺
三菱の優位がそのまま続けられると良かったのですが、パリダカデビュー後数年が過ぎると業界が大幅に 進化し、市販車のパジェロ改造型では勝てなくなり、そこで三菱はプロトタイプをパリダカに送り込みました。この時に正直に三菱プロトタイプが優勝・・・・・とやればまだ良かったのですが、これに次期モデルのパジェロに似せたマスクを被せパジェロと表示しました。三菱の詐欺まがいのビジネス、これが失策その1でした。

数年後にはその時のパリダカマシンの顔付きになった2型パジェロがデビューしました。
この2型パジェロが高性能であれば問題は無かったのですが、エンジンも足廻りも技術が全く追い付かず、 1型パジェロ後期型のエンジンやサスがそのまま使われました。ボディーが大きく重くなったのにエンジンやメカは全く変更なし、従って2型パジェロ初期型はモデルチェンジによって1型後期よりも低性能になり、当時はまだ凡作だったプラドでしたが、差を付けられなくなってしまったのです。これが三菱の失策その2でした。

2年後大幅に性能向上した新エンジン2800㏄125hpがデビュー、メカも多少改良されました。
所が時を同じくしてライバルのプラドも新エンジンがデビュー、3000㏄130hpでした。差は僅かに見えますが、トヨタエンジンは非常に出来が良く、実際に走り始めるとトヨタの超圧勝、トヨタの130hpが正しいとすれば 三菱は100hp未満、プラドに勝つ為にはパジェロはエンジンが2つ必要だとも言われました。数年後パジェロは140hp(実質120hp位)となり、プラドとの差は多少縮まりましたが、まだ勝てませんでした。

2型パジェロは使えない程酷い車ではなく、並の性能でした。しかしパジェロのユーザーはパリダカで圧勝したスーパーマシンの血統を引き継ぎ、凡作プラドごときに絶対に負けないと信じて購入したのですが、実際は 加速、走破性、強度、旋回半径、乗り心地等々、どれ一つプラドに勝てない駄作に成り下がってしまいました。そうとは知らない一般のユーザーにはまだ2型パジェロは非常によく売れましたが、やがて多くのユーザーがパジェロはスーパーマシンで無い事に気が付き始め、中古車価格は一気にプラドの1/3まで低下しました。

1999年にはエンジンもサスもデザインも大きく進化した、3型パジェロがデビューしましたが、妄信的ファンと三菱関係者以外は誰も購入しませんでした。そして2006年に4型パジェロがデビュー、デザインをベストセラー時代の2型に戻しましたが、売り上げは好転する事無く、以後はトヨタのプラドの超圧勝が続き現在に至ります。そしてパジェロは2019年にその生涯を終えました。

根室スクールの会員達も1995年頃は2型パジェロが圧倒的大多数、次いで日産テラノでした。全員がケンさんの車にレスキューされ、10年後にはケンさんと同じランクル76が1番多くなり、レスキュー要請は大幅減となりました。ランクル神話に「生き残りたかったらランクルにしなさい」がありますが、4WDは何処のも大差ないのではなく、拘りのランクル76に比べますと、全ての他車は走破性能が大きく劣るのです。詐欺ビジネスでずっと勝ち続けられるほど世の中は甘くありません。三菱の工場閉鎖は当然の結果だと思います。

   ジュニアシリーズの詐欺とデリカシリーズ
1時期の三菱はパジェロの好評に付け込んで、パジェロミニ、パジェロジュニア、パジェロイオ等のパジェロの ジュニアシリーズを設定、これらもパリダカの成果に牽引され売れまくりました。しかし例を挙げるなら独立懸架でサスストロークの短いパジェロミニは本格的なオフロードでは使える車と使えない車に分かれます。ジムニーもスズキの設計ならパジェロミニや今のハスラーの様な平凡な車だったと思いますが、ジムニーの原設計は本格派を目指したリジットアクスル式、東京の農機具メーカーのホープ産業でした。

1型パジェロを素晴らしいと書きましたが、その時点で他社より良かっただけの話であり、その優位さは僅か数年で消えています。何は共あれ、三菱はパジェロのメカを流用した、スターワゴンとスペースギアのデリカ シリーズを設定、これもよく売れましたが、本家パジェロのメッキが剥がれ人気低下と共にジュニアシリーズもデリカシリーズも売れなくなりました。これもパジェロミニの項で説明した様に低性能の車を高性能と偽ってジムニーに負けないスーパーマシンとして販売したのですから当然の結果と言えました。

つまり背伸びビジネスと言うか、欲張り過ぎて新技術に手を打つのが数年遅れたのが主原因でした。
これが失策その3でした。WW2の日本軍と同様なパターンで貧弱な技術で欲張るので、次期エンジンや新戦闘機に廻す人員がいなくなってしまったのです。ジュニアシリーズやデリカシリーズの展開を程々に制限し、余剰人員や時間を新規開発に向ければ、もう少しまともなビジネスが出来たと思われます。
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テレビのコマーシャルにデリカD5が急坂をドッカンドッカン揺れながら走破するシーンがあります。
あれを力強いと感ずるのはシロート、ランクルシリーズはあの程度の坂ならデリカより遥かに長いサスストロークと適正な制御で面白くも無く平然とスムーズに走破します。
D5のそれは短いサスストロークが出来の悪い制御でサスが激しくボトムしているのであの揺れが起こります。何時もあのCMを見ると、わざわざ技術の無さを恥ずかしくもなく、宣伝している様な物だと思っています。
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   三菱の他のビジネス
三菱は大企業です。しかし他の部門もこの所パッとしません。飛行機では「MRJ」、最近はスペースジェットと呼名を変えましたが、7年に及ぶ6度の設計変更による納期遅れした。飛行機の新技術は10年程度で消滅 ですから最早新技術と言えなくなって完全に優位性を失いました。それだけではなく度重なる設計変更により費用は高額となり、機体重量は重くなり、売りであった低燃費も怪しくなりました。こうなりますと実績のないメーカーの飛行機を売り込む事は非常に難しくなります。
すでに縮小化の方向が発表されておりますが、遠からずMRJは全面撤退する運命と思われます。
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ヘリコプター部門ではMH2000と言う意欲的な試作機体が墜落し、その欠陥を対策出来る見通しが立たずに全面撤退しました。造船部門では豪華客船で納期遅れの超大赤字、その方面から撤退する事になりました。

車でも比較的好評のアウトランダーPHVですが、プロのケンさんが初期型に試乗した所、バッテリー走行分を除きガソリン走行時の燃費は、プリウスなら20㎞/㍑の所を僅か12㎞、比較にもならず三菱の技術レベルの低さを感じました。その後は多少改善された様ですが、新商品を出し急いで評判を落としてしまった様でした。

そうそう日産と三菱の合弁で作った軽自動車はどうやっても完璧な直進が出来ません。お粗末でした。スズキの車は直進しますが、直進のすぐ隣で手応えの逆転があり、好ましくありません。

三菱車はパジェロ以前にすでに行き詰まり、日産と軽自動車の合弁会社を作りましたが、その日産が青息吐息です。三菱に付きましては典型的な大企業病ですから、誇らしげに付ける三菱マークがそもそもダメ三菱の元区ではないかとケンさんは思っています。三菱グループから外れて三菱マークも辞め、単独の自動車屋として1型パジェロの様なヒット作をまた全員で企画すべきだと思います。

    技術のない日産の詐欺
先日借りた日産のXトレールのレンタカーで驚いたのは、乗り心地の悪さに加えて路面ノイズとブレーキの喰い付き音の大きい事でした。我が家のダイハツの刑よ降り大幅に劣り、日産の主力車種がこの程度の出来栄えなのかと思いました。我が家のエルグランドキャンパーも同年代のハイエースに比べて乗り心地の悪い事、また樹脂の部分が反り繰り返っており、総合技術レベルの低さを強く感じます。

1970年代の話ですが、いすゞのエンジンは壊れていても10万円でしたが、トヨタのエンジンは新品同様でもいらないと言われました。1980年代、町のタクシーはトヨタですが、山間部のタクシーは丈夫な日産でした。その頃までのトヨタ車はお世辞にも高性能とは、そして丈夫とは言えない車でした。ケンさんの愛車もトヨタ車ではなく、日産のセドリックディーゼルでした。

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時代は変わって1990年のトヨタランクル80とサファリY60の比較です。両社は共に4200㏄のディーゼルです。トヨタ80はデビュー当時からターボの設定がありましたが、技術のない日産は6年も遅れてやっとトヨタより15%ほど劣るターボがやっとデビューしました。情けないですね。ランクルとサファリのノンターボ同士ではトヨタ130hp、日産125hpでしたが、実際はここでもトヨタが130hpなら日産は100hp未満と言う感じでした。

更にもう少し年月が過ぎ、2005年頃、ハイエースとキャラバンの耐久性比較は1~2桁の大差でハイエースの超圧勝となりました。どちらの会社に技術があるのかハッキリ分かり、技術の日産のメンツは完全に丸潰れです。壊れたハイエースは数十万円ですが、遥かに程度の良いキャラバンは買い手がおらず、多くがモータースの片隅でゴミを一時保管するゴミ車になっておりました。

以上の様に近年の日産に技術の無いのは明らかですが、それでも「技術の日産」を謳い続けて来たのですから三菱同様に詐欺と言えます。当然ですが2007年にはサファリも生産中止、そして会社自体が青息吐息、当然の成り行きと言えます。技術のない日産を社員全員が十分に認識しなければ根本的な解決は無く、嘘を付かない「真心の日産」の看板を上げ、「技術の日産」の看板を降ろすべきだと思います。

    初期のトヨタ
多くの国産自動車メーカーは欧米とアンダーライセンス軽違約を行い、国産自動車を作りましたが、トヨタはフォードとシボレーを参考にしながら独自開発しました。その第1号はまだトヨタ自動車設立以前の1935年G1型トラックの製造を開始しました。刈谷の本社で組立てられた第1号車は名古屋のお披露目会場まで25㎞を自走しましたが、何度も重大なトラブルを起こし、着いたのは3日後でした。
当時のトヨタ車の品質はその程度でした。そんな品質ですからアメリカとまともに戦える筈がありません。

1964年に東京オリンピック、その少し後から日本にも高速道路の時代がやって来ました。
その高速道路で国産車の故障車が続出、当時日産とトヨタはシェア30%で競り合っていましたが、高速道路のトラブルの60%はトヨタ車だったそうです。
ケンさんがトヨタに入社したのは1968年、当時のトヨタの技術は国産車の最下位でした。

ケンさんも及ばずながら品質向上や操作性向上や整備製の向上に微力を尽くしました。
まず設計者に実際の運転と整備を体験させる提案をしました。当時は運転の出来ない設計者もたくさんいたのです。やがて多くの設計者が運転とは、また整備とはを知る様になり、ケンさんの微力も多少の効果はあったと思いますが、多くの人が品質向上を本気で目指しました。
そんな努力が1990年頃から実を結び始め、2000年頃には10年10万kmをアンタッチャブルで乗り切れる確率は世界ダントツとなり、トヨタの高品質は世界中が認める事になりました。

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そんな事もありまして1980年以来ケンさんは圧倒的な走破性のランクルファンになりました。
この頃のランクルはトヨタワッペンのアラコ製でしたが、これを世界に通用する高品質に育てのはトヨタです。その後のランクル100では見事な品質に育ちました。良い乗り心地は疲れを激減し、疲れたと感じるまでの走行距離はランクル60基準で行きますと80は2倍に向上し、更に100で2倍になりました。耐久性も恐ろしく上がり、20年に渡り運用しましたが、殆どの消耗部品までもが新車の時のままでした。

更に1997年にデビューしたプリウスシステムですが、当初は世界中の誰もが評価しませんでした。
ケンさんもその1人ですが、それも2015年にデビューした4型プリウスでは従来からの欠点が概ね全て解決し、実燃費は一段と向上し22~25㎞/㍑が可能となり、世界をリード出来る様になりました。
ケンさんは長い間ずっとディーゼル派でしたが、今やハイブリッドの性能を無視出来なくなりました。
もうトヨタに技術が無いとは言わせません。






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Posted by little-ken  at 16:44 │ハンティング