2021年03月12日

村田銃

村田銃はフランスのシャスポー銃、及びそれを金属薬莢式に改良したグラース銃を参考に作られた国産初の軍用小銃で13年式(1880)とそれを小改良した18年式(1885)がありました。

時代としては黒色火薬時代の末期であり、欧米から10年程遅れていました。1884年には無煙火薬が発明され、性能は約2倍になり黒色火薬の銃は一気に時代遅れとなり、村田11㎜軍用銃は非常に短命でした
村田銃
                  村田13年式軍用銃と村田13年式改猟銃
村田銃
軍用銃では短命だった村田銃でしたが、それを30番の散弾銃として払い下げられた村田猟銃や類似構造で新造された村田式猟銃は1960年代前半まで使われた長寿命の猟銃となり、古い時代の代表的な猟銃となりました。村田銃に付きましては過去にも書いておりますが、かなり進化しましたので、またお付き合い下さい。

  村田猟銃は何時から始まったのか?
日本陸軍はヨーロッパに比べ近代化が多少遅れましたが、明治22年には無煙火薬を使った22年式村田連発銃(1889)8㎜口径の8連発に改編、その後30年式歩兵銃(1897)先丸6.5㎜ボルト5連発、30年式の改良版である38式歩兵銃(1905)先突6.5㎜ボルト5連発と矢継ぎ早に改編され、99式短小銃(1939)7.7㎜が追加されました。

村田猟銃は22年式に改編と共に、射程距離が半分しかない旧式の13年式と18年式は予備役に編入され、次の30年式の普及と共に払い下げられ、その好評が故に、民間メーカーも村田式猟銃を作り始めたと思っていたのですが、実際はもっと早い時期からあった様です。

Wikiによれば出発点は明治10年代と言いますから、軍に納める明治13年式や18年式銃の余剰品をハーフライフル銃として民間にも多少は販売して様です。
そして明治20年(1887)には村田式を製造する民間銃器メーカーはすでに14社もあったそうです。

  村田銃の種類と数量は?
つまり村田式猟銃は軍用銃払い下げよりもずっと前から生産されていた事になります。オリジナル村田軍用銃は15万丁あった様ですが、多くは近隣国に売却したりで、払い下げ銃の数量は定かでなく、民間14社がそれぞれ何丁生産したのかも定かではありませんが、どうやら民間版の方が遥かに多かった様です。

村田銃の種類は下記の6種がありました。
  1.設計者村田経芳が設立した村田製作所により、民間向けに軍用村田銃の構造を踏襲
    する形で最初から8番~40番径散弾銃として制作された物。
    この中には11㎜ハーフライフルの銃も多少あった様です。
  2.民間銃器工場14社にてライセンス製造された物。
  3. 町の銃砲店がノーライセンスで新規製造した物。
 
  4. 火縄銃の銃身に村田式のボルトを後付けした物。
  5. 幕末の洋式銃を村田式に改造した物。
  6.オリジナルは払下げ村田銃の改造銃であり、口径は同じ薬莢を使う30番(12.3㎜)が
    多かった様ですが、1部は28番(14.0㎜)と36番(11.3㎜)もあった様です。


現在の銃砲店は単なる銃の販売業ですが、1960年代までは小規模ながら銃の製造業者でもありました。これはヨーロッパでも同様であり、銃は小規模の手工業的な製品であり、お金持ちしか購入出来ない物でした。アメリカだけは話が別で、開拓者全員が銃を持ち、その銃は銃メーカーによる大量生産品でした。

戦前の日本は今からすれば信じられない程、銃の販売は自由であり、銃所持を制限する法律はありましたが、銃の販売業者でさえそれをよく知らない時代でした。その為に銃砲製造業者は非常に多く、お金さえ出せば口径制限もなく、ライフルでもピストルでも自由に手に入る時代でした。横浜だけで銃の販売店(製造業者)は30店以上あった様です。

1975年頃、ケンさんは静岡県浜松市のヤマハに務めており、不可能に挑戦する仕事をしていましたが、その頃の浜松の電話帳には銃砲製造業者の項があり、地方の田舎都市である浜松周辺でも10数件が掲載されていました。

すでに自動銃の時代となり、過半以上が銃の製造業をしていなかったと思いますが、1960年頃までは相当数の村田式猟銃が新造され、正規の登録銃より無登録の銃の方が遥かに多かったと思われます。

ケンさんが実物を目にした未登録の村田式猟銃は、3丁とも口径の刻印以外は無く、メーカー名やシリアル番号すら無しの30番口径でした。洋式スタール銃は刻印がありUS製だった様で20番でした。

また隠匿していた幕末頃の洋銃や火縄銃その物や、それらの村田式改造銃も田舎の納屋や蔵を整理すると多数が出て来ました。火縄銃は元々12㎜口径の物が多く、洋銃は15㎜口径の物が主流でした。少年だった頃、村田銃と99式短小銃が不燃ゴミに出されていたとする新聞記事がありました。

国内の猟銃や狩猟の世界では1950年頃から狩猟に爆発的人気が起こり、相当な数の村田式新銃が作られ、1960年頃から約10年間は国産水平2連の新銃が飛ぶ様に売れました。空気銃は登録その物が不要な時代でした。

水平2連銃の普及に伴い村田銃は姿を消して行きました。同時にその頃から無登録銃の供給は減少した様ですが、田舎ではまだまだ村の代表数名だけが正規の登録をし、それ以外は闇の銃を使うのが当たり前でした。水平2連銃より安価な「米単」と呼ばれたアメリカ製の中折れ単発銃も売れ筋商品でした。

1970年頃から10年間は国産自動銃がバカ売れしました。自動銃の開発は手間と時間が掛かり、この頃に町の銃砲店の銃製造は終わり、無登録銃は概ね姿を消しました。この時ケンさんは20歳、狩猟を始めました。

  村田式猟銃
民間業者の村田式猟銃の新銃は8番(21.2㎜)~76番(7.6㎜)まで多くの口径バリエーションがありましたが、最も多用されたのは36番口径(11.3㎜)でした。

純性のオリジナルで最も多かったのは、軍用と同じ薬莢を使う30番村田口径であり、未登録村田銃3丁も全てオリジナルと同じ30番口径でした。
当時小口径が好まれた理由は飛鳥射撃を殆どしない運用から、高価な火薬の消費の少ない事でした。
村田銃
12番以上の大口径はヨーロッパではアフリカの象や犀を撃つ為の銃でしたが、日本ではガンやカモ猟の用途でした。上写真のカモ撃ち用の大口径のパント(小舟)ガンでは1発で50羽位が獲れたそうです。
村田銃
           上:村田式8番銃と下:シャスポー改村田式&火縄改村田式
村田銃村田銃
こうして日本は1900年頃から村田銃の原型であるシャスポー銃や他の洋銃も含めて大量の銃が村田式に改造されて払い下げられ、空前の村田銃ブームとなり、水平2連銃の普及する1960年代前半頃まで使われました。

  圧倒的な数の「フロロフカ」
ロシアのベルダン1870は11㎜ライフル銃から村田銃の様に30番や36番ではなく、32番(13.3㎜)28番(14.0㎜)24番(14.7㎜)に改造され、また16番や20番の散弾銃としては1930年まで新造されました。これらは「フロロフカ」と呼ばれ、ベルダンの総生産数は300万丁でしたから、こちらの方が村田銃+村田式の合計より遥かに多かった様です。
村田銃
           上:ベルダン1870 11㎜ と 下:モシンナガン1891/30 7.6㎜ 村田銃
その後フロロフカはこちらが数的主力となりましたが、モシンナガン1891/30の7.6㎜ライフル(生産数1200万丁)からも銃身を削り広げて、28番(14.0㎜)又は32番(13.3㎜)の改造散弾銃が大量生産されました。

それに留まらずドイツのモーゼル98初期型7.9㎜も大量にフロロフカに改造されロシアに輸入、更にモシンナガンは新造銃身で16番(16.8㎜)までの各種口径にも改造され、ボルト式改造散弾猟銃の本家は狩猟大国ロシアがダントツと言う事になりました。今も幾らかは現役の様であり、近年410番で再生産されたそうです。

そのベルダン1870の前の時代の銃は口径15㎜前後であり、例として世界中に大量にあったエンフィールド先込めパーカッション銃は577口径のスナイドル銃に改造されましたが、これは最初から20番口径と言えました。アメリカに於いてはすでにマスプロの12番水平2連銃がたくさん普及しており、改造散弾銃化は少な目でした。

  村田銃のパワー
村田銃村田銃村田銃
イラストは左から11㎜軍用村田弾、30番村田の鳥撃ち用散弾、大物用丸弾の単弾です。オリジナル村田弾は417grの弾頭を1375fps(419m/s)で撃ち出し、パワーは1750ft-lbfでした。見て分かる通り弾頭の下は全て遅燃性黒色火薬でした。

散弾用の場合は速燃牲の火薬量で、量は前記の30%程度、その上には火薬ガスが散弾を押し出すピストン役のボール紙、その上はフェルトを圧縮したクッション役のコロスでした。
更にボール紙を入れ、その上は散弾、1番上には紙の蓋で散弾を止めました。速燃性火薬では弾速を60%まで落とすと火薬消費量は1/3で済みますが、燃焼安定幅は少なく、規定量を守らないと薬莢が膨らみ抜けなくなりました。

右はマタギ等の大物猟師が使った単弾仕様です。下から速燃性火薬、紙の蓋、フェルトのコロス2個、紙の蓋、その上には12.3㎜の丸弾、そして丸弾は蠟で固定されるのが通常でした。弾頭は230gr(15g)、弾速は921fps(280m/s)、パワーは僅か434ft-lbfでしたが、直径20㎝の松の生丸太を貫通しました。

ヒグマでも急所には十分届き使えなくはありません。当時のマタギは30番丸弾で動きを止め、槍で勝負をしていました。この時代でもライフル用の遅燃性の黒色火薬でリロードすれば、現在の20番スラグ弾の80%に近いパワーで撃てましたが、ノーライフルの丸弾の時代は精度が悪く、20mまで引き寄せて「肝」で撃つ時代でした。
ケンさんが捕獲したヒグマも射程はかなり近く、6頭中の5頭は50m以内で撃ち獲っています。

  単弾専用仕様のイカサマ410番
現在のライフル銃の定義は 1.ライフリングが銃身長の50%以上ある銃。  2.ライフル弾を発射出来る銃。  と言う事になっており、308のままのハーフライフル散弾銃はあり得ませんし、11㎜ハーフライフルの村田銃も散弾銃ではなく、ライフル銃になりますが、当時は分類が軍用銃と猟銃の2つだけでした。

公安側は2項の周辺実態を知らず、410番のハーフライフル散弾銃に多数の許可を出してしまいました。実際にこれらの410番の銃は444マーリン弾も、44レミントンマグ弾もリムドで形状は類似、410番プラ装弾に比べ径は僅かに小さく、多くは薬室に入ります。
村田銃
写真左から410番プラ、444マーリン、410番金属薬莢、44レミントンマグです。
銃身径(10.4㎜)と弾頭径(11.2㎜)の関係から安全かどうかは別にして、410番の銃で発火する事は出来ました。

それを実用的なエゾ鹿猟用にする為に、各型式の多数の銃が44口径用バレルを装着し、410番ハーフライフルとして改造され、販売されました。444マーリン弾は2849ft-lbfと308よりやや低速で大きなパワーを持ち、精度もライフル銃に準じたモノが期待出来ます。

その頃はまだサボットスラグ銃がデビューしたばかりで精度がまだ上がらず、410番ハーフライフルその実444マーリン銃はハイパワー&高精度&長射程の3拍子でかなり人気がありました。
村田銃
その最も顕著な例としてレバーアクション銃の444マーリンと言う銃がありました。
その名の通り444マーリン弾仕様のライフル銃ですが、市販散弾の410番も撃てると言う事で、本銃をハーフライフルとし、マガジンを2発に詰めただけの410番の銃を販売した業者もいました。

2000年当時のアメリカ価格は300ドル前後、円ドル相場は今も大差なく、僅かな改造だけで10倍の30万円、サコー改では50万円で売ると言う悪ドイ商売をしていました。

完成装弾の購入は不可ですが、リロードならケースは何を改造する事も自由、火薬や雷管も数量管理だけで希望する銘柄が購入出来ましたから、444マーリン弾その物のハンドロードが出来てしまいました。

当局も後刻、444マーリン弾や444仕様の銃身の事を知り、それで出た指導が散弾仕様のノーライフルにする事と 移動禁止となりましたが、前者はお願いと言う事で従わなかったユーザーも多く、後者の場合は警察官には法律的にライフル銃か散弾銃かを判断する権限が無く、直接名義変更の場合は阻止出来なかった様です。

その後の444ハーフライフルですが、ハンドロードの資材が入手し辛くなり、運用が難しくなっている様です。またライフル弾が撃てると言う事で、下記のムード派410番を含めて許可を出さない警察署も増えたと聞きます。

  ライフルマニア向け 410番スムースボア
真面目なライフルマニア向けに有名メーカーボルトライフル等を410番に加工する業者もたくさんいました。こちらはノーライフルでありライフル銃に準じた精度は無く、50mの急所を狙うには怪しげとなり、用途としては射程20m程度の本州鹿の巻き狩り、または射程10mの日本猪の巻き狩りの程度です。
村田銃村田銃
  410番改造銃:上:サコーL61R、ウインチェシター1894、下:スプrングフィールド1873、スペンサー1860
村田銃村田銃
装弾は410番の市販装弾またはライフルの薬莢を短くしたリロード弾等が使われました。
実用性は444マーリンを含め現在のサボットスラグ銃の圧勝ですが、今もこのムード派410番は銃砲店中古銃リストによく見掛けます。西部劇型や古式銃型はスペイン製のレプリカ新銃の改造版です。

  狩猟は不可能に挑戦する「男のロマン」
銃は鉄と木で出来ている工業製品です。車やバイクや飛行機にもそれなりの機能美はありますが、銃には遥かに及びません。銃には大きな魅力があり、故にモデルガン派は多いのですが、実銃の壁はかなり高く、実際に超える人は10%以下となります。それを頑張って超えたのですからムード趣味も認めて良いと思います。

しかし銃は元々狩猟の道具ですが、本来の目的である狩猟を好きになられたら如何でしょうか? 
狩猟にも銃に負けない程の魅力があります。狩猟は人間より5感が3桁以上発達した野性鳥獣が相手であり、「不可能に挑戦する」スポーツです。しかし難度が高いからこそ、達成感も大きく、その満足度も非常に高く、ケンさんは最高の人生を戴けたと思っています。

野性鳥獣はハンターを避けて行動しますから、5感が3桁違いの中で獲物と出会う事は絶望的困難と思わされました。また出会えても散弾銃の有効射程は僅か40m前後、20~30mまで近寄らなくてはなりません。

ライフル銃の場合は距離的にはやや楽になりましたが、時間を要する精密照準&射撃をしなければなりません。どうすれば獲物に出会えるのか? どうすれば近寄れるのか? どうすれば照準時間をもらえるのか? いずれも場合にも手法はちゃんとありました。それらをまとめた物が「狩猟大全集」です。

散弾の飛行速度は遅く、着弾までの時間に鳥はかなり前進しますから、射的距離の5~10%前を撃たなくてはなりません。しかしそれには距離と速度の目測が必要ですが、それらには共にかなり大きな誤差が含まれます。

その誤差が均等分布するとして計算すると、撃墜出来るのは約300発に1発となります。
こちらの絶望的困難にも解決法はありまして、2017年のNZカモ猟では85発から47羽を撃墜出来ました。

しかし本州鹿にはテコ摺り、1頭目捕獲までに9年間、正味実戦70余日を要しました。
敗因は5感が3桁違うので射手の視界外で存在を感付けれ、射撃勝負まで持ち込む事が出来なかったのです。

最初の10年間の捕獲はこれ1頭、しかし次の10年間では捕獲100頭、更に次の10年間では何と1000頭を捕獲出来ました。それなりの解決手法は何時もありましたが、何時もそれを見付けるまでには「時間」を要しました。

現在の銃と弾薬は昔とは違い、全天候性で発火率100%であり、100m先の着弾誤差は㎜単位であり、300m先の急所を狙える実用性能があります。銃にはその性能があっても精密射撃は体が反動を嫌い、発射の直前に勝手に硬くなる事で当初は照準を非常に大きく乱しました。

ライフル銃は結論として上記精度以外にも、200m先を走る鹿にも命中させられ、更に50m以内なら西部劇並の早撃ちでも命中させられる銃でした。

しかし射撃技術以外に心が至たらないと後述の足が地に着いた射撃になりません。
見事な大物鹿の生息数は少なく、実戦では20日に1回以下、つまりシーズン中の毎土日を皆勤しても出会いは良くて1回だけ、稀に出会えてもその大きさに迫力負けしてしまい、足が地に着かない射撃になって逃します。

迫力負けも何度も何度も悔しい思いを経験している内に、何時の間にかそれを乗り越え大物鹿は言うに及ばず、猛獣ヒグマにハチ合わせても臆さずに足が地に着いた早撃ちが可能となりました。
何れも簡単な道ではありませんでしたが、成果は射手の技術と心次第になります。

当初は何もかもが絶望的不可能に思えましたが、全て可能にする手法があり、これも狩猟大全集にまとめられています。この様に不可能に思える状況下で、解決手法を見付ける、これこそが『男のロマン』 だと思います。

  ヒグマ ロマンと当時の実情
今回のテーマである村田銃の記録として、1915年の北海道苫前の三毛別(サンケベツ)ヒグマ事件があります。これは冬眠に失敗したヒグマが15軒の開拓村を襲って、死者8名と言うヒグマ事件中の最大の物でした。

近隣の開拓村から急遽掻き集められたのは村田銃5丁、取り囲んで飛び出したヒグマに一斉射撃しましたが、発砲はマタギの1丁だけ、それも失中、残る開拓民3名は不発、1名は発砲準備動作にモタ付いて機会を逃しました。当時の機材と射撃術では難しいですが、もしこの時に倒す事が出来れば被害は2名だけで済みました。

他にも数回の個別チャンスがありましたが、人喰い大ヒグマに対し、ここ1番に足が地に着いた射撃をする事の難しさ、走るヒグマに命中させる事の難しさを物語る事件でした。

また同時に僅か1月前までヒグマの猟期だったにも拘らず、60%が不発、強吸湿性のある黒色火薬の取扱いの難しさを物語る事件でもありました。湿気ない完成装弾の販売は50年後の1965年頃からになります。

三毛別ヒグマ討伐隊には無煙火薬ライフル銃を装備した現役兵30名も投入され、更に枠を広げた近隣開拓民の銃も集められ、総数は60丁に及びましたが、数で勝負が出来るモノではありません。

高度な頭脳を持ち、走るヒグマに対し迫力負け&恐怖負けを含め、対戦出来る技量を持っていない烏合の衆の討伐隊には荷が重過ぎました。結局、三毛別ヒグマ(体重350kg)はすでに多少被弾して動きが悪くなっている処を山本兵吉氏が単独で20mまで隠密接近し、1発目は心臓、2発目は頭に命中させました。

山本兵吉氏は生涯に約300頭を捕獲した凄腕猟師、烏合の衆の討伐隊には参加せず、単独行動で挑みました。兵吉氏の愛銃はロシアのベルダン1870、13年式村田銃(1880)と同世代の黒色火薬の11㎜口径の軍用単発ライフル銃でした。

1部の資料で200mから射撃と言う記載もありますが、それは間違いです。ベルダン1870は黒色火薬のライフル銃であり、急所を狙える有効射程は50m、弾速的にも90mが限界です。

ヒグマと一生に1度は勝負したいと思っていたケンさんでしたが、具体的な行動開始から6年目の実戦150日余に願いが叶い、初勝負に持ち込めました。

この時はマグレ捕獲だったのかも知れませんが、その後の9年間に5頭を追加捕獲、距離15mの突然の鉢合せや、推定450㎏の超大物にも臆さずに対処出来ました。また6頭中4頭が走るヒグマであり、捕獲成功はランニングショットも含めて、マグレではない事を証明出来たと思います。

銃は構えてから狙って撃つのではなく、向ける事自体がすでに照準になっており、動的にも照準不要なのです。三毛別ヒグマとケンさんが対戦すれば、得意のスナップスイング射撃でたぶん撃ち獲る事が出来たと思います。

2016年、国内目標を全て達成したケンさんは最後のアフリカ猟に出猟、ここで半依託射撃の遠射記録380mで450㎏のクドゥを捕獲、これにて「不可能にチャレンジ」を終了、2018年にライフル銃を卒業返納致しました。







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Posted by little-ken  at 17:17 │銃と弾