2024年02月18日

10年で1頭→次の10年は100頭→更に次の10年は1000頭。

  11非常に良い趣味を戴きました。
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 11-1.野良猫のカモ猟。
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 11-2.事前土木工事と射撃ポイントで3分間のフリーズ。
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 11-3.最初の10年(1982~1991)の捕獲は1頭だけでした。
1982年から本州鹿巻狩りを始めました。数年間の辛抱は必要であろうと覚悟はしていたのですが、結果は7年目に待ち場に行く過程でオス大物に鉢合わせ何も出来ず見送りました。

同じ失敗は繰り返しませんが、同年中同様で小物鹿に発砲で来ましたが、全弾失中(実際はケツかすめが判明)でした。

9年目、今回はかなり進化し、小物3頭が初めて待ち場に掛かり、3連射で先頭鹿即倒、続く2発追加射撃は失中に見えましたが、2頭共が被弾、その後に近場で捕獲されました。

最初の10年間は9年目の1頭だけに終わりました。しかし7年目の初回失中から、スラグ弾に拘る事を辞め、バックショット運用に変更、9年目の初捕獲の分析から、やがて「禅の心」作戦を立案、更に数年後には強力なバックショット専用銃を作り上げ、次の10年間には大きな成果を上げる事が出来ました。

 11-4.次の10年間(1992~2001)は100頭の捕獲でした。
その大きな花が開いたのは通算12年目でした。
あれ程までに獲れなかった本州鹿ですが、ケンさんは3週連続で3段角捕獲に成功しました。

3週連続で待ち場に鹿が来たのはマグレかも知れませんが、それを射程内まで引き寄せる事が出来たのは「禅の心」作戦のお陰であり、それを失中しなかったのは射撃の実力と言えました。

無チョークの20番ディアーガンでバラ撒く、バックショットは良く当たりますが即倒する事が少なく、不満がありました。そこで12番バックショット専用銃を作り、その後4年間で18チャンスから20頭を捕獲出来ました。
10年で1頭→次の10年は100頭→更に次の10年は1000頭。
結果は失中も半矢も出さずに全ての鹿を捕獲出来ました。「バックショット専用銃」と「禅の心」作戦のお陰でしたが、しかし4日に1頭の本州鹿巻狩りに限界を感じ、卒業する事にしました。

エゾ鹿猟自体はすでに7年前から並行して進んでおり、この頃は白糠単独流し猟にて、毎日平均1頭を捕獲出来る迄になっていました。

知り合ったプロガイドの奨めで、根室猟を体験する事にしました。根室の鹿の出会いの多さに驚きました。そこでしばらくの間はプロガイドに附いて、学ぶ事にしました。

走る鹿が予想外に多い事から、自動銃の連射でこれの捕獲を目指しました。3年間に90日出猟し、3000発を走る鹿に発砲し、「スイング射撃」の初歩を開拓出来ましたが、後から見ればまだまだ話にならない程のお粗末な物である事は、この5年後によく分かりました。

それでも鹿の習性をかなり勉強出来、ポイント猟を開拓出来、末期には1日2~3頭を捕獲出来るまでになりました。

この10年間の捕獲は100頭となりました。
本州鹿が20数頭、エゾ鹿が80頭前後、内走る鹿が20頭前後でした。

サラリーマン時代も有給休暇は全て種猟の為に目一杯取得していましたが、自前会社時代は この枠をもう少し広げる事が出来ました。
お陰様でポイント猟の初歩を開拓出来、またスイング射撃の初歩を開拓出来ました。

 11-5.更に次の10年間(2002~2011)は何と1000頭の捕獲でした。
2000年末、根室にてケンさんは地元暴走青年の事故に巻き込まれ、復帰に2年間を要しました。

この間実射する事が出来ず、1年以上をドライファイアーや、イメージトレーニングだけで過ごし、「銃」の反動を忘れた事が結果オーライとなり、最も難題であったフリンチング対策が出来上がりました。

銃だけに撃たせる事が出来る様になり、2002年射撃再開の場で驚いた事に150mテーブル撃ちの5発が12㎜と言う、ライフルマンの憧れだったワンホール射撃が達成されました。

ワンホール射撃や高率捕獲には高精度なカスタム銃や精密ハンドロード弾が絶対に必要としていたのは「業界の陰謀」であり、本当は市販銃と安売り弾薬でワンホール射撃が可能だったのです。

一方でケンさんの会社は2年間休みましたので会社の仕事は止まったまま、このまま廃業2002年に仕事を卒業しました。
収入を途絶えさせては不味いので、自前会社時代の利益で借家を立てました。

更に本格的に狩猟に打ち込む為、そして同年にリトルケンハンティングスクールを開講し講師となり、また獲れる人は書けず、書ける人は獲れず、狩猟関係・銃関係のライターをする様になりました。

北海道の友人がエゾ鹿肉屋を開業、ケンさんはミートハンターになりました。
エゾ鹿猟に出撃する日数はスクール開講を含め年間60日を超え、これは当時のエゾ鹿猟は2.5カ月の75日しかなく、解禁と正月と終猟のラッシュ時を避けた概ね全部と言えました。

連日エゾ鹿猟をすると、エゾ鹿の習性は更に良く分かる様になり、ケンさんの「ポイント猟」は一段と進化、更に銃を2006年サコー75ボルトに換えますと、ライフル射撃技術は一気に開花、永年憧れて いたライフル射撃の全てのテーマが2006年中に達成されました。

ワンホール射撃だけはすでに2002年に達成されていましたが、スナップショットを完璧な射撃方法として完成し、50m以内であれば、西部劇早撃ち並で急所を確実に撃ち抜けました。

2006年「ナミビアポイント」と呼ぶ即倒率100%の急所を開拓、今まで捕獲が難しかった「超大物エゾ鹿」の捕獲も一気に5倍となりました。念願だった「ヒグマ」も捕獲出来ました。

射撃面では銃をサコー75ボルトに換えた直後から、300m遠射は最早外し様がないと思える様になり、540mの超遠射2頭連続即倒が実現しました。150mアバウト早撃ちも確立出来ました。

ランニング射程は従来H&Kオート時50mでしたが、サコーにした直後から4倍の200mとなりました。そして距離4倍にも拘らず、1頭捕獲に要する弾数は従来の5発強から半分と言える2.7発となりました。

更に多少慣れた2か月後、1頭捕獲に要する弾数は、再び半分と言える1.4発になりました。
そして鹿肉の大量注文が入った2007年1月には5日間で50頭を捕獲、憧れだった5発5中もその間に3回記録出来ました。走る鹿も70%が急所直撃の即倒でしたから誠に痛快な猟でした。

各事項がそれぞれ大幅進化し、その集合体でこの10年間では「何と1000頭」の捕獲となりました。

この栄光の時間が永遠に続くかと思われましたが、そうは行きませんでした。

鹿肉買い取り業者は毎年価格を20%下げて来まして、ケンさんが鹿肉販売で生計をしていないとは言え、5年後には余りにもアホらしいタダ同然価格となり、流石に限度があり蹴りました。鹿肉業界はそこまで酷くは無く、同時経営の焼き鳥屋の赤字を鹿肉買上げ価格に転化していたのです。

こうしてケンさんは2012年度から捕獲を控える様になり、買取り屋は翌2013年肺ガンで他界してしまいました。

一方で獲れないエゾ鹿猟ブームは過ぎ去り、全ての狩猟雑誌廃刊でライター失業、ケンさんスクールも生徒が集まり難くなり、更に初期生徒は5日猟が多かったのですが、3日猟主体のダブルパンチ、スクールは存亡の危機を迎えましたが、もうしばらく赤字でも続行する事にしました。

11-6.「不可能に挑戦こそ、我が人生」
環境の著しい変化にケンさんは海外大物猟・ビッグフィッシング・生徒を育てる事に活路を求めました。
10年で1頭→次の10年は100頭→更に次の10年は1000頭。
10年で1頭→次の10年は100頭→更に次の10年は1000頭。

アフリカ猟は2009年から3回、ニュージーランド猟はビッグフィッシングを兼ね、5回を数えました。海外大物は15種、ビッグフィッシングは他の6か国分を含め18種を捕獲しました。

もう1つ大切な事を忘れてはなりません。ケンさんが色々を達成出来たのは、「我が相棒」のお陰です。
16回・14ケ国の秘境旅行と、27回・21ケ国を数えた海外パック旅行を一緒に楽しみました。

そして2016年、海外大物猟も手が届く範囲は全て網羅、ライフル銃のテーマは全て達成したと思われ、総捕獲1228頭、所持期限が切れる2018年にライフル銃を返納、狩猟人生70年を終えました。

振り返ればケンさんの人生その物が「不可能に挑戦」で「音痴克服」の歴史でした。
発達障害のスポーツ音痴が「国体選手」になりました。漢字音痴の勉強音痴が「ライター」になりました。
「阿保」は死んでも治りませんが、「音痴」は治せました。世の中に不可能は余り無い事になります。

狩猟は特に初期からずっと「不可能に挑戦」でした。
元々野性鳥獣の五感は人間の3桁以上も離れており、まともには勝負出来ません。五感のスキは無い様に見えましたが、習性の欠陥を上手く突けば射程内まで持ち込め、照準時間を貰えました。

銃には反動があり、これを上手く処理しようとする条件反射が、射撃の最大の難敵でした。
体が身構える事で、動的時は銃のスイングが止まってしまい、静的時は照準がズレてしまうのです。
ケンさんは偶然の交通事故からとは言え、これを乗り越える事が出来、「業界の常識」では市販銃と 安売り弾では出せる筈が無いと言われた、ワンホール射撃が達成されました。

「スイング射撃」はショットガン&ライフルの両方に共通で使え、共に驚異の命中率でした。
50mの的紙からハミ出す「フリンチング射手」が「ライフル射撃のテーマを全て達成」し、海外猟の射撃ミスは相当高額なペナルティーでしたが、「ミスる筈が無い」と言える様になりました。
強度の「方向音痴」で「ハンターの資格がない」と言われた若者が「ハンティングガイド」になりました。

仕事もずっとエンジニア畑であり、「不可能に挑戦」の連続でしたが、アイデアは無限であり、何時も全てに必ず解決方法が用意されていました。

ちょっと分かり難かっただけなのでした。小さなアイデアも組み合わせますと、非常に大きな効果を出す事が出来ました。
結果的に言えば、「不可能に挑戦こそ、我が人生」と言えました。
10年で1頭→次の10年は100頭→更に次の10年は1000頭。
ケンさんが特に得意としたのは「能率10倍」、大きな工場生産もケンさん改善で10倍が可能でした。
一見不可能に見えても、必ず解決策があり、手掛けた3件は全て10倍を達成出来ました。

獲物と出会う事はそれ以上に高難度ですが、「ポイント猟」は1日5回以上勝負が可能、走るエゾ鹿に射撃は「急所直撃即倒率70%」、「5発5中」も単に確率の問題、エゾ鹿捕獲は1051頭となりました。

ライフル銃を装填し、構えて狙うにはそれなりの時間が必要ですが、しかしこれも1桁合理化出来、装填と安全解除しながら、構えて狙い撃つ、全てが一瞬で命中可能な「スナップショット」を考案出来ました。全ての難題には必ず「手法」がありました。

宜しければ「狩猟大全集」:https://shuryoudaizenshu.militaryblog.jpを参照して下さい。
ケンさんが如何にして対処して来たのか? ヒントが掴めれば幸いです。
10年で1頭→次の10年は100頭→更に次の10年は1000頭。




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Posted by little-ken  at 09:46 │ハンティング銃と弾